家
冷たい。
頬が濡れる感覚。
ほんのり漂っていたドブの臭いが鼻腔を満たす。
体中の骨という骨が軋む。だがどこかが折れた感触はない。
目の前にはぐったりとした寝顔。
「ヒロ・・・大丈夫か・・・」
痺れる腕をなんとか伸ばし、傍で横たわる体を揺さぶる。
「・・・んん」
僅かにしかめた顔に細い瞳が宿り、2人とも命はあると胸を撫で下ろす。
確かな安心を取り戻し、体を起こすことなく背を濡らした。
いつもより狭い曇り空を見上げる。
苔の生えるザラついたコンクリートの壁が額縁となって味気ない灰色の雲を飾っていた。
手には水に濡れた砂がいくつもへばりつき、妙な不快感を演出している。
ようやく体を起こせるところまで落ち着き、いつもより数段閉塞感の増した世界を見回す。
2人を囲むように焼け焦げた木片やトタンの残骸が散乱していた。
そうか、あの爆発に吹き飛ばされたのか。
まさか無傷だなんて・・・日頃の行いがよかったか?
外の景色はよく見えないが、水路の縁は陽炎で揺らめいている。
あの状況であれば、今更路地に戻る必要もないだろう。のっぺらぼうを確実に始末できなかったのは残念だが、怪人といえどもあの爆発に巻き込まれてタダで済むとは思えない。生きていたとしても致命傷は与えたはずだ。早めに移動すれば追ってはこれまい。
「ヒロ、怪我はないか?」
「うん・・・僕は平気。ヨシさんは? 大丈夫?」
「まあ、折れてはないみたいだ。さ、早く、ッショと。ここから離れよう。またあいつが来るかもしれない」
「・・・うん」
袖で顔を洗い、俺の手を握る。
「うおっ!」
「あっ、ご、ごめんなさい・・・」
あまりの感触に思わず手をはねのけてしまった。
「い、いやすまない。あんまり子供と手を繋いだことが無くてな・・・。さあ、行こう」
安心した顔で差し出した手を握り返す。
こうしてちゃんと握るのは初めてだ。
離せばどこか遠くへ行ってしまいそうな、細く、小さく、熱を奪う柔らかい手のひら。
砂地ではあるが、所々苔が生えたコンクリートが露出している。用心するに越したことは無い。
「ヨシさん、いこ」
「ああ、滑らないようにな」
「うん」
蛍のように火の粉舞う水路の中、手を繋いで歩く2つの影。
下流に向かっているのか上流に向かっているのかは分からない。
大きな手には物騒な獲物。
小さな手にはプラモデルの入った袋。
砂地には大小並んだ2人の軌跡が伸びていた。
「わ~れらみ~ちびけ~ゆうしゃのひ~かり~」
湿った暗いトンネルの中を初代機動勇者ダンガーのメロディーが反響する。
ついさっきあんなことがあったのに、もう歌い出せる元気を取り戻したようだ。
こちらは左足からの活力も電池切れなのか、ひどい倦怠感に襲われている。
肉体的にも、精神的にも限界が近い。まだ倒れていないのが不思議なくらいだ。
「きどうゆ~うしゃ~!だ~ん~・・・ヨシさん顔色悪いよ?大丈夫?」
隠していたつもりでも俺の顔色は正直なようだ。
「ああ、平気だ。だが少し休みたいな。ここで腰を下ろす訳にもいかないが」
「うん、ちょっと休もう!う~ん、あ!あそこ!」
緩やかな蛇行を越えた先にはまだ出口ではない。しかし壁沿いに一箇所だけ、丸い光に照らされた足場が見えた。
「よし、あそこでひと休みしよう」
コンクリートの天井に開いた穴からは頼りない光が差し込み、水路にはみ出した一畳ほどの足場をリビングに見立てていた。
「よいしょっと」
「ふぅ~結構歩いたね!」
「トンネルも長いな。まだ先が見えないなんて」
「上流で雨でも降ったら沈んじゃうかも?」
「こら、縁起でもないこというなよ」
「あははははっ!」
嫌味や嘲笑の意図が一切感じられない、和ませるためだけの笑い。
この子なりに俺を励まそうとしてくれているのか。子供に気を遣わせてしまうなんてな、社会人失格だよまったく。
疲れ切った身体が頬を緩めることを許した。
「あっ、そうだ!」
袋の中から梱包材に包まれた箱を取り出す。
「割れちゃってないかな・・・」
爆炎に飲まれ、水路に叩き落され、到底割れ物の扱いではなかった。心配もやむを得ないことだろう。
「開けてみるか?」
「うぇっ? いいの?」
「そりゃ、開けてみないと分からんだろ」
「それも・・・うん、そうだね。開けてみる!」
好奇心に目を輝かせ、透明なテープをひとつひとつ丁寧に剝いでいく。
黒い背景に赤い機体が描かれたパッケージが残り一枚となった梱包材から透けて見えてくる。
「これって・・・!」
最期のベールを取り去り、艶のあるボール箱の全貌が明らかになった。
「ザザビーだ!!すっっごーーい!かっこいいーー!!」
好奇心は更に輝きを増し、憧憬の眼差しは声を伴って暗い水路を照らし出した。
「ヨシさん!これどこで買ったの!!」
「これな、ここに迷い込む前に近くにあった模型屋で偶然な。いや~とんだ掘り出し物だね」
「それって、ウエダのおもちゃ屋?」
「おお、知ってるのか。あのつるピカ頭の店長さんがやってるとこ」
「え゛え~そこ今日僕行ってきたのに~」
「あっはっは!運が無かったな小僧、また出直すんだな!」
「あ~でも、お小遣い全然なかったんだ」
「なんだ、お父さんに買ってもらえばよかったじゃないか」
「僕の家は貧乏なの!でも、これ見れただけでもうれしいな~」
そういやお父さんの会社がどうとかって言っていたな。最近はプラモデルも高いから、懐が厳しい家はこんなもの買ってる余裕なんてあるわけないか。
・・・・・・。
こんなに悔しいことがあるものか。少しは恩に報いろ義行。
「なあヒロ、作ってみないか」
「ふぇっ!?」
うっとりとイラストを眺めていたヒロが驚愕の声を上げる。
「で、でも!これヨシさんの大切なものじゃ・・・」
「いいっていいって。それにほら、作ったらこんな箱持ち歩かずに済むんだからさ。」
「う~ん・・・。ほんとに・・・いいの・・・?」
不安と羨望がこっちまで伝わってくる。
いいのか?超レアキットだぞ?もう買うには1万円以上かか――
ええい!うるさい!
「もちろんさ!あ、約束はこれとは別だからな。外に出たら、NEWダンガーも買って一緒に飾ろうじゃないか」
「・・・っ! ありがとう!ヨシさん!!」
ああ、こんなにもまっすぐにお礼を言われる時が来るだなんて。
確かな満足感が体の隅々まで染み渡る。独りで作っているだけでは味わえない達成感だ。
「これって道具いるの?」
「箱開けてみな。いいニッパーを一緒買ったんだ。それもプレゼントするよ。いっぱい作りな」
「やったー!じゃあさっそく~♪」
慎重に上箱を取り外すと、中から鈍く輝く美しいランナーが出迎えた。
上から降り注ぐ弱い照明の中でも、その深い赤は変わらなかった。
「すっごーい!なんでこんなにきれいなの?こんなの初めて見たよ!」
「ハイクオリティverで、最初から塗装してあるんだ。ビギナーズクラスだけど、出来はプレミアムクラス以上さ」
「フレームまでちゃんとメタリックだ!すごーい!」
ランナーはたった3枚、ガンメタリックのフレームとワインレッドの外装、後はシルバーとクリアーの細々した部品だ。プラモデル初心者でも、1時間で組むことができるビギナーズクラスとは思えない豪華仕様だ。
「ええっと、ニッパーってこう使えばいいの?」
「反対だ。こっちの切り欠きの無い面をパーツに当てるんだ。ほんとは2度切りした方がいいんだけど、このニッパーは切れ味抜群だからそのまま切っていいぞ」
「うん、わかった!」
震える手が青い握り手を挟みこんでいき、閉じる2つの刃はスッと樹脂を断ち切った。
「おお・・・!」
「どうだ?切り心地は」
「す、すごい・・・」
俺も初めて使った時はその滑らかな切れ味に感動したものだ。初めて買ってから、もう何度もお世話になっている。取扱い注意の代物だが、もう手放せない。
「そのニッパーはあんまり丈夫じゃないから太い所は切っちゃ駄目だんだが、このランナーは・・・全部細いな。気を付けて切るんだぞ」
「よ、ようし・・・」
1つ、また1つ。次々にパーツを切り出していく。震えていた手も、いつの間にかしっかりとニッパーとランナーを支えていた。
みるみるうちにランナーは余白だらけになり、最後の1つが切り離された。
「よし! 全部切ったよ!」
「じゃあ次は、この説明書を読みながら組み立てだ」
「いよいよだね! えっと、B-2とB-3は・・・これか!」
「向きに気を付けるんだぞ」
「ここと、ここを合わせて。う~~ん!」
「なんだ、貸してみな」
懸命にパーツを押し込む姿は健気でかわいいのだが、ここで指を痛める必要はない。
「よっ、と」
パチンッと乾いた音を立て、2つの部品はぴったりと組み合わさった。
「おお~」
「硬いパーツがあったら貸しな。ほら、まだまだたくさんあるぞ」
「がんばる・・・!」
パチン パチン
樹脂が勘合する小気味良い音だけが、どこまでも暗い水路に響き渡った。
ヒロの表情はずっと光に照らされていた。俺も、彼の真剣な表情にそっと微笑み、眺めていた。子供のころを思い出す、懐かしい、無邪気で、疲れ知らずの笑顔。
この世から切り離された異なる世界でただ2人、樹脂の模型を作り続けた。
これ以上ない、平和な時が過ぎていった。
「できたーー!!!」
天からの光に掲げられたザザビーは、プロモデラーのどんな作品よりも眩い光を放っていた。
「やったなヒロ、上手にできたじゃないか」
「ヨシさんが手伝ってくれたおかげだよ!うわ~かっこいいな~!」
「よし、じゃあそれはもうヒロの物だから、名前でも書いておくか」
「こんなに綺麗なのに名前なんて書けないよ!」
「違う違う、装甲の裏にだよ。ほら、足のバーニアの裏なんかどうだ?」
「そっか!う~ん、鉛筆でもいいかな~」
「どうせならそのニッパーで掘ったらいいんじゃないか?鉛筆だと誰かが消しちまうぞ?」
「それも・・・そうだね。よし!」
左足の装甲を慎重に取り外し、ニッパーの片刃をあてがう。
「ん~と、漢字がいいかな?」
「ヒロ、なら片仮名がいいんじゃないか? 曲線は難しいだろう」
「わかった!」
「ちょっと危ないから、俺が手を添えよう。一緒にやるぞ」
「うん!!」
小さな背を抱き、随分と冷えてしまった手を包みこむ。
ゆっくりと刃が食い込み、慎重に下へ、右へ。
赤黒い下地にはっきりと「ヒロ」の名が刻まれた。
「ありがとうヨシさん!!」
「ははっ、満足いただけたようでなによりですぜ」
自分の名を刻んだザザビーを見つめ、再び満ち足りた笑顔を作る。
「でも・・・映画見る前に作っちゃった・・・」
復讐のジョアか。最近リバイバル上映をやってるから、それを見に行く予定だったのか。親父さんも生活が苦しいのに、凄いもんだな。
「あっはっは。じゃあお父さんには、観るまで内緒だな」
「お父さんも楽しみしてたから、そうするよ!」
親父さんが初めてとなると、子供のころは相当苦労していたみたいだ。だが我が子と憧れの映画か、羨ましい限りだ。
「さ、こいつも完成したことだし、そろそろ行くか」
「ねえヨシさん、これどうしよっか?」
ヒロが指さしたのは切り出したランナーとビニール、梱包材にパッケージのボール箱。つまりゴミだ。普段なら自分が出したゴミは何があっても持ち帰るのだが、完成品はヒロのバックの中であり、完全に用無しになった端材たちをわざわざ持ち歩く必要は無くなってしまった。
「そのままにしておこう。もし誰か来た時、何かに使ってくれるかもしれないしな」
良心が痛むが人命優先だ。お天道様も許してくれるだろう。
再び手を取り合い、闇に包まれた道を歩き続ける。
「ヒロ、食べるか?」
「ありがと!」
残り2つ。
もうカロリーを得る手段も無くなってきた。水もあと一口ずつで精いっぱい。そろそろ出口か、路地に戻る手段が欲しくなってきた。
「やっぱりこれおいしーね」
「確かに美味いが、オブラートは平気なのか?大人でも苦手な奴はいるぞ」
「おばあちゃん家で食べるお菓子って大体巻いてあるからさ、全然気になら、あっ!ヨシさん!前!」
「なんだよ・・・あれは!」
闇から灰へ、灰から白へ。グラデーションになった曲り道。
「出口だよ!」
「やっとか・・・!」
「いこ!!」
「ああ!!」
疲れも柑橘餅で吹き飛び、水飛沫を上げながら2人で駆けだした。
開けた世界。
水路は急に3倍の幅になり、両脇にはひし形の護岸工事が成された壁が反り立っていた。正面の水が流れてくる暗い入り口は鉄格子がかかっているが、白いコンクリートの構造物沿いには登り階段が見える。
「ヒロ、上に戻ろう。ここから先は進めないみたいだ」
「大丈夫かな・・・。またあいつが追ってきたりとか・・・」
不安は残る。だがここで立ち往生しても何も変わらない。
「大丈夫さ、次はヘマしないよ」
「ほんとかなぁ~」
「何かあっても、我らがエースパイロットが助けてくれますからな」
「えへへへっ、じゃあ2人で共闘だね!」
「そうと決まれば・・・行こうか」
リラックスしていた体を引き締める。
今度こそ、守って見せる。
警戒しながら一段ずつ登っていく。
頂上に着き、辺りを見回すも特に変わった者は見受けられない。
最初に入った時と変わらず、古い造りの民家とバラック小屋が立ち並んでいる。
「あれ?」
「どうした、ヒロ」
脇から顔を出したヒロが妙なことを口に出す。
「僕の家だ」
ここが・・・ヒロの家?
表札の「谷瀬」以外は、今まで見てきた民家とさほど変わらない外見。所々崩れ落ちた飾り付きの塀が、裕福だった時代を暗に示していた。
「えっと、鍵がここに・・・あった!」
茶色に染まった郵便受けに手を突っ込み、銀色のカギを取り出す。
ガチャガチャと鍵を開けるヒロは、どこが楽し気で、どこが悲しげで。
「ヒロ・・・?」
「あいた! ヨシさん、どうぞあがって!」
振り向くことなく玄関の中に吸い込まれていくヒロを止める言葉を、俺は持っていなかった。
玄関の中。暗く、狭い。人ひとりがやっと通れるくらいのスペースしかない。
入ってすぐ右には靴箱と思われる木製の戸棚。棚の上の写真にはヒロと、その両親とされる2人の男女が映っている。「入学式」と描かれた看板の前に、正装の両親とその間ではしゃぐ子供を映した微笑ましい家族写真だ。ヒロの歳を考えればありえないはずだが、ポラロイドカメラで撮った写真のような黄ばみがかかっている。親父さんがカメラの愛好家、とか?
恐怖ともとれる強烈な違和感を感じる。
この写真は、何かおかしい。
右下の日付とされる潰れた文字列を確認するために手を伸ばす。
「ヨシさん早く~!」
写真に伸ばした手が止まる。
いや、気のせいだ。ヒロの下に急ごう。
1Kの狭いキッチンを通り抜け、正面のリビング手前の部屋に入る。
ヒロはどこに行くこともなく、部屋の真ん中で本のようなものを開いていた。
あまりにも、「本」とは呼べない代物を見ていた。
全てが真っ黒に塗りつぶされている。黒炭で強く擦ったかのように、艶のない黒がめくるページすべてを覆っていた。
この部屋も何か変だ。
あるのは低いベッドと勉強机だけ。今の子供には狭すぎる部屋だが、問題はそこではない。
何もかもが古いのだ。
黒ずんだ青色の鉛筆削り。壁に貼ってある色褪せた地図。大きく書いてある文字は「ソビエト」とかろうじて読むことができる。
半開きのふすまから見えるのは銀の網目を持つ扇風機。床は幾何学模様が描かれた厚手の絨毯。
極めつけは机の上に開かれた雑誌の1ページ。
破れも色褪せもない、ネットで何度も見たことのある1枚絵。
『激突! NEWダンガーVSザザビー!』
『ゼロとジョア、遂に決着!!』
『劇場版 機動勇者ダンガー 復讐のジョア 今春全国上映!!!』
おかしい。
復讐のジョアが放送されたのは何年前だ?
ZダンガーとZZZダンガーの後、40年前だぞ?
こんな古い雑誌を、ヒロが持っているはずがない。親父さんが大事に持っていたのか?だとすれば貴重なものを置きっぱなしにするのか?
死とは似ても似つかない、異質な恐怖に戸惑いを隠せない。
ヒロはぺたんと座り込み、俯いたままである。
ヒロ。ここは多分、お前の家じゃない。何かの罠だ。早くここから出よう。
焦げたアルバムを眺め続ける背中に声をかけようと口を開くが、大地が揺れる衝撃が世界を襲った。
喉元まで出かけていた声は後頭部の重く激しい痛みに押しつぶされる。
何が起こったのか、知覚と思考が始まるよりも先に、闇が訪れた。
白く巨大な残像を目に焼き付けて。
闇を超えた扉の先。
大量の本に、ペン、補修用テープ。
見慣れた部屋だ。
時刻は夕方。
窓際には彼女の後ろ姿。
狭い空間に、男女が2人。
「何用かな?」
鼓動が痛い。
なんとか表に出すまいと平然を装う。
紅い夕陽を背に彼女は振り向く。
表情は、見えない。
「ヨシ君・・・。ううん、義行先輩」
まだ心の準備ができていない。
まだ盾の用意ができていない。
まだ受けの構えすら取れていない。
いや、そんな必要ないだろう?
次にくる言葉は知っている。
よく、知っている。
今でも、夢に出てくるくらいには。
「別れませんか?」
今にして思えば、無理もなかった。
むしろよく半年も続いたと思う。
「本当に、ごめんなさい。その・・・私から好きっていっておいて、何様のつもりだって、思うかもしれませんけど・・・」
構える必要がないのは当たり前だった。
なにせあの瞬間、何のダメージもなかったからだ。
俺たちはお付き合いを始めてから、半年も経たずに距離をとるようになっていた。
『えー政府は先ほど、主要都市7つに対し、非常事態宣言の発令を行いました』
あるウイルスが世界中を襲った。
インフルエンザウイルスを凌駕するその圧倒的な感染力に、人類は互いの交流を極限まで減らすことで抵抗した。
しかしそれは、恋に熱中する愚か者の頭を冷やすには、あまりにも十分だった。
最初は恋焦がれた。
ああ、この忌々しい感染病よ。
1日でも早く消えてはくれないだろうか。
月に向かい、変な願い事をしたっけな。
通話の回数もこれまでに比べて格段に増えた。
互いに、恋人の声を忘れたくなかった。
しかし次第にその回数は減っていった。
毎日だったものが2日に1回、3日に1回、1週間に1回。
そしてSNSでのやり取りも次第になくなり、最後に返信したメッセージは2か月も前のことだった。
お互いが、理解してしまった。
別に恋人がいなくても、特に不自由しないと。
だからこそ別れの言葉は何も響かず、今になって俺を呪い続けていた。
「いいよ、君がそう言うなら」
なにも思うことなく、平然と言葉を返す。
「ごめんなさい・・・」
彼女はお辞儀をするように頭を下げる。
いや、謝るべきはこっちの方だ。
めちゃくちゃに振り回してしまって、ごめんなさい、と。
恋人として、何もしてやれなかった。
俺みたいな、刺されてもおかしくないぐらい自分勝手な奴に頭を下げる必要はない。
しかし俺は気でも狂ったのか。
垂れる頭にあまりにも無粋で、あまりにも礼儀に欠く言葉をかけた。
「どうして、好きになったの?」
彼女の頭がゆっくりと持ち上がる。
「あなたが、優しかったから」
逆光に隠された、彼女の表情。
背後の太陽が放つ最後の輝きの中、はっきりと見えた。
彼女は微笑んでいた。
瞳に涙を浮かべながらも、優しく、見送るように。
『だって私が居なくても、先輩は楽しそうですから』
彼女の短い髪が風になびく。
『優しいあなたのままでいてくださいね、約束ですよ』
別れ際、最後に聞いた彼女の声。
笑って、怒って、悲しんで。
どんな声で、どんな顔をしていたっけ。
黄昏と闇が入り混じり、部屋を飲み込む。
現実に起きた事なのか、はたまた俺が作りだした妄想のひとつだったのか。
どちらでもいい。
結果は変わらない。
俺の、醜い自分の内側。
本当の自分。
反吐が出る。
なにが『優しい』が嫌いだ、だよ。
そこに何の哲学的な、あるいは社会学的な見解は無い。
ただのトラウマだ。
勝手に楽しんで、勝手に傷ついて、勝手に引きずって。
そうやって、お前は生きてきたんだろう?
いいじゃないか。
全部自分のことだ。
勝手に楽しんで、勝手に傷ついて、勝手に引きずって。
また勝手に楽しんで、生きていくんだろう?
お前は何も変われはしない、何者にもなれないんだ。
何も変わりはしないなら、せめて楽しく、生きていこうぜ。
だが人様への迷惑だけは考えないとな。
自分が傷つくのはいいが、他人が傷ついて平気じゃいられないからな。
あと、親に心配されるのも面倒だ。
人生を楽しむのは、それからでいいさ。
なあ、ヒロ?
「ヒ・・・ロ・・・・・・」
鉄の味。
冷たい地面。
重い身体。
なんだかさっきも同じような目に遭った気がする。
拳を砂地に突き立て、悲鳴を上げる腕に力を込める。
揺らぐ視界の前は赤一色。
重い衝撃の後、気を失う直前に見たあいつの姿。
ぶよぶよと太った巨躯。
のっぺらぼうと同じ、血色の良い白い薄皮を被った顔。
右手にはノコギリ鉈。
ヒロが危ない。
気絶しても離すことのなかったノコギリ鉈に体重を預け、膝を持ち上げる。
頭から血が抜けたのか、あの部屋での違和感がまるでなかったようにスッキリしている。
ここは、通ってきた水路か。
コンクリートの階段が見えるとなると、あの家の傍の水路に捨てられたようだ。
ガタつく関節に気合いを入れ、やっとの思いで立ち上がる。
「ヒロ・・・今、行くからな・・・」
一歩、また一歩。
足取りはおぼつかない。
ノコギリ鉈を手に持つのが精一杯だ。
だが助けなければならない。
助けてと手を伸ばす子供を、命の恩人を見捨てるほど、俺は腐っちゃいないからな。
自然と不敵な笑みがこぼれる。
まだ、残ってるよな・・・。
潰れ、水を吸った小さな箱を取り出す。
あと2つか。
1つ、噛みしめる。
残りはヒロの分だ。
血だらけの腔内に爽やかな果実の風味が駆け抜ける。
痛みが少しだけ和らいだ。
一歩、また一歩。
何が今の俺を突き動かしているのか、自分でも分からない。
でも譲れないものはある。
俺を、俺たらしめる『なにか』。
それだけは、変われない。
コンクリートの階段を登ってすぐ、さっきまでとは一変した風景が広がる。
全てが朱い。
全身の痛みが無ければまだ夢を見ているかと見間違うほどに、静まり返る町は傾いた陽の光に照らされていた。
血ではない、灼けた空の色。
曇天ばかりで灰色続きだったこの裏路地が、今は黄昏色に染まっている。
「これは・・・」
俺の血だろうか。
朱の足跡が水路からの行きと帰り、1往復分きっちりと残されていた。
あのデブ、まだ家にいるな。
足を引きずりながらも、どうにか家の玄関にたどり着いた。
ドアは半開き。
ありがたい。
だがさっきから聞こえるこの音はなんだ?
ギィーーーズーーーー ギィーーーズーーーー
家の中から聞こえる不気味な音。
木材にノコギリを当てる音が一番近い。
軒先に足をかけると、その音が不意に止む。
ダ゛ン゛゛ッ
硬い何かを、断ち切る音。
この家で一体何が起きているのか。ヒロは、あの子は無事なんだろうか。
ドアノブに手を伸ばす。
すると扉が勢いよく開き、何かが猛スピードで足元と通り抜けていった。あと少しで突き指をするところだった。
しかしさっきの影、恐らくあの化け物犬だ。いつもなら俺を見つけ次第よだれを垂らして追いかけてくるのに、なんだってこんな勢いで・・・。
何か加えているのが見えたが、詳細までは分からなかった。
だが道は開けた。
一本道の先にあるリビングに横幅のある人影。
あのデブ野郎だ。
待ってろ、今すぐお前の脳天をかちわ―――
怪人は右腕を大きく振り上げていた。その先にはノコギリ鉈。
ダ゛ン゛゛ッ
再び家中にこだまするせん断音。
太った背中の影から何かが弾き飛ばされる。
白と赤に染められた、子供の腕くらいの太さの棒。
最初は何か分からなかった。しかし怪人が立ち上がったとき、それが存在してはいけないものだという確信と明確な殺意が、俺を突き動かした。
血飛沫を浴びたヒロの顔。
すぐそばには肉々しい赤の断面。
怪人が手に取る紅白の棒。
ヒロの左腕だった。
さっき駆けだした化け物犬が咥えていたの物も、今化け物犬に与えられている物も。どちらもヒロから離れてはいけないものだった。
「うおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
我を忘れ、痛みを忘れ、ノコギリ鉈を振りかざす。
踏み出した右足に鋭く、重い痛み。
化け物犬だ。
「じゃまだあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
鉈の刃が爛れた頭蓋を叩き潰す。
黒い粘液が白いキッチンを染め上げる。
もう一匹が飛び掛かる。
「どけぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
切り返す獲物の背には、無数の刃が列をなす。
飛び掛かった化け物犬の毛皮を引き裂き、肉を抉り、腹ワタを引きずり出す。
大小さまざまな臓物が黒いフローリングを彩る。
やっとの思いでリビングに入場する。
化け物犬は休む間もなく右足と両腕に汚れた牙を食い込ませる。
「あぁぁぁぁぁ!!!!!」
左足が右足に噛み付く化け物犬の腹を捉える。
メキメキと肋骨を砕く音と、内臓を潰す感触が伝わる。
たまらず化け物犬は体液と共に顎を離す。
化け物犬が喰らい付いたままの右腕を振り上げ、左腕を塞ぐ化け物犬の首を断ち切り、そのまま右腕を思い切り壁にぶつけ、マズルごと押し潰す。
怪人は待っていた。
赤一色に染まった眼を細め「さあ、殺し合おう」と言う戦闘狂のような余裕のある出立ち。
対してこちらは満身創痍。
意識があるだけマシな方か。
両手でノコギリナ鉈を構える。
焦点の合わない目はそれでも目前の巨体をはっきりと捉え、穴の開いた足は痛みという発破を元に血塗れの床を踏み締める。
沈黙が走る。
1秒か、1分か、1時間か。
どれだけ経っただろうか。
それほどまでに長く、重い静寂。
映る世界に暗幕がかかる。
多量の出血に耐えられず、前のめりに体勢を崩す。
ブン゛ッ
力強い風切音を上げ、怪人の一撃が俺の倒れ行く頭に目掛けて水平に振り下ろされた。
嘘だろ・・・。
こんな・・・ところで・・・・・・。
『じゃあ、約束だよ?』
終わって、たまるか!!!!!
左足が一歩前へ。
大地を踏み締め、倒れる体を支える。
目と鼻の先をノコギリ鉈が通り過ぎる。
怪人は体勢を崩し、無防備な右肩と顔を曝け出していた。
「うおぉぉぉぉぉりぃゃぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」
掛け声と共にフローリングを砕き、獲物を前方に切り上げる。
血が滲み出し、顔面はくの字に陥没するほどに、 ノコギリ刃が怪人の顔面にめり込んだ。
巨体が大きく傾き、地響きを鳴らす。
すかさず馬乗りになり、太刃を歪んだ頭部目掛けて振り下ろした。
「じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ! じね゛っ!」
全身に衝撃が伝わる度、怪人の四肢がビクッと持ち上がる。
刃が血を纏う度、俺の顔もまた血にまみれる。
振り上げる度、ヒロのやさしい笑顔が頭に浮かぶ。
ヒロ
ヒロ!
ヒロ!!!
「う゛わ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」




