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独り

ふーむ、ここも駄目か・・・。

毎回最奥に来てはいるものの、相変わらず背丈の何倍もある壁が待ち受けていた。

RPGみたくアイテムや宝箱の1つでもあれば少しは気晴らしになるのだが、それをこの空間に求めるのは酷というものか。


路地裏の新たな区画はいたる所に脇道曲がり道別れ道がある。

前の区画のようなループする一本道よりかは正気を保っていられるが、いかんせん疲れる。

毎度「こっちの道になら何かあるだろう」と淡い期待を寄せてしまい、終点で肩を落とす羽目になっている。

猿の方がもう少し早く見切りをつけそうなものだが、こちらも譲れない理由があった。


喉がカラカラだ。

先の化け物犬からの逃走とその後の死闘。

ただでさえ余裕の無かった体にその2つの追い討ちはあまりにも強烈だった。

水が摂取出来なくても3日間は生存可能とはいえ、流石にこの運動量は考慮されていないだろう。


民家の軒下に青々と茂る草花達。

彼らを襲うことがそろそろ現実的になってきた。

だが実行に移さないのは、それがリスクある行動だからだ。

俺は雑草に詳しいわけじゃない。

もし口に入れたものが毒草だったら?

即死せずとも、嘔吐や下痢の症状からは免れない。

そうなれば本末転倒だ。

まだ虫食いの痕跡があれば少なくとも毒は無いことが分かるが、どの葉も整った緑の縁をを魅せている。

酸っぱいブドウよろしく、ここは見なかったことにしておこう。




「はぁ・・・」

脇道の冷たい石段に腰を下ろす。

体力的にはまだ余力はあるが、乾いた体はエネルギーの消耗がいつもより激しい。

食べ物から水分を得る選択も取れないため、少しでも体が熱を帯びれば足を止め、息を整える。そしてまた歩き出す。を繰り返していた。


ぼーっと柔らかな泥の地面を見つめる。

乾燥地帯に生息する生き物の中には、泥を食べて塩分と水分を効率よく摂取する種がいるそうだ。消化吸収能力に長けた人間ならば同じ芸当ができ・・・るなんてことはないか・・・。

冗談を笑う声も乾いてしまった。

いや笑い事じゃない。本気でまずい。

サバイバルの第一は飲み水を探すことだ。

水が無ければ死ぬも同じ。

今まさにそんな状況だ。

だが解決の糸口は見えない。

もういっそのこと水路に降りて苔にしゃぶりついた方がいい気がしてきた。


・・・・・・。

目の錯覚だろうか。

見つめていた泥に模様が浮かぶ。

楕円の山はまるで足跡だ。

よく見ると大きさは俺の手のひらより一回り小さい、つまり20センチぐらいか。

となると子供の足跡の可能性が高い。


つま先の向かう方を眺める。

行き止まりではない。

俺以外の他の誰かが、ここに迷い込んでいる。

間違っても「おーい!誰か居ませんかー!」などとは叫ばない。

あの犬が群れを成してやってくる可能性はゼロでは無いため、それを考えてのことだ。


子供でもいいからいて欲しい。

情けない話だ。

元の世界にいる人間からするとたまったものではない願いだが、心細い今の俺には他人が必要だ。





あれは・・・。

1つ限りの足跡を追いかけて数百歩。

道の脇に見慣れないものがあった。

銀色の円筒が転がっている。


まさか!?


乾きも忘れ輝く円筒に飛びつく。

間違いない。

水筒だ。

500mLは入りそうな持ち運びしやすい大きさ。


まだだ、安心するのはまだ早い。

肝心なのは中身だ。


命の源を抱える銀筒に手が触れる。

触れた箇所から熱が奪われ、冷気を帯びていることを確信する。

両の手は液体独特の慣性と揺らぎ、そしてなによりも

『チャポッ』




ああ・・・美味い・・・。

よく冷えた水がひび割れた体内に恵みの雨を降らせる。

全身の細胞から幸せの声が上がった。

これほど甘美な経験は生まれて初めてだ。


「ふぅ~・・・」

考える間もむせる間もなく一気に飲んでしまった。

腐った泥水でも入っていたらと思うとゾッとする。

ただ今回は結果オーライということで。

内蓋を開けてみると、まだ半分くらいは残っている。

危なかった、一気飲みができない体質に感謝したのは後にも先にも今以外ないだろう。

補給は期待できない。大切にしよう。

銀の水筒はよく見ると青と白のノイズが入っている。

何かのキャラクターが描かれていた痕跡のようだが、度重なる洗浄により原形をとどめていられなかったようだ。

色落ちした青の紐が付いていることからも、小学生の持ち物であることが容易に想像できるが、さっきの足跡といいこの水筒といい、果たして本当に子供が迷い込んでいるのだろうか。

心配しても仕方ない。

例えいたとしても、あの化け物犬に見つかれば・・・。

・・・思い出すだけで気分が悪くなる。

あの潰れゆく肺が奏でる声は二度と耳にしたくない。

そんな不幸な子供はいないし、どこかへ置いてけぼりにされた水筒だけがこの空間も迷い込んでしまった。

そして俺は偶然この水筒を見つけ、晴れて現実の世界へ!

なんてことになれば、一番いいんだがな。

新アイテム「水筒」を入手した主人公俺は、次なるアイテムを求めて突き進む。




『・・・ㇲン・・・ㇲン・・・』

やはり聞こえる。

この環境に耐えきれず、とうとう頭がおかしくなったかと思ったが、何度耳を塞いでも仮眠をとっても聞こえてくる。

さっきの助けを求めるかすれた声とは異なる調べ。

声の大きさからしてそこまで離れた場所にいるわけではなさそうだ。

だがこれもまた何かのイベントだという可能性もある。

油断は禁物だ。

プラモデルの箱をしっかりと抱え、ノコギリ鉈を今一度握りしめる。

鬼が出るか蛇が出るか。




近いな、この辺りか。

脇道を五回ほど曲がり、結局元の路地に戻ってきた。

鼻をすする音は未だ健在。

次の曲がり角の先に狙いをつけ、抜き足差し足で忍び寄る。

さあて、なにがいるかな?

玄関の見えない民家の裏手の道。

短い軒の下、小さな体が背を丸めていた。

「ㇲン・・・ズズ・・・」

生存者、しかも子供だ。

右手の力を緩め、全身をほぐす。

こんな場所で子供独りだ。間違っても不審者と思われてはこっちの心がもたない。

なんとか警戒させずに、そう、にこやかに爽やかに!

今すぐにでも駆け寄って飛びつきたい心細さを押さえる。


足音をわざと大きく立て、自身の存在をさりげなくアピールする。

子供の小刻みに震える肩が止まった。

「おーい坊主、独りか?」

気さくな挨拶に反応し、顔を向けてくれた。

小学校低学年の、まだ幼さが抜けきらない顔立ち。

服装から見ても男の子であることは間違いなさそうだが、涙の跡が残る顔はその認識が揺らぐほどに中性的な印象を受けた。


驚き、困惑、恐怖。

俺を視認した表情は鮮やかに遷移し

「うわああああああ!?!?」

悲鳴と後ろ姿が残された。


・・・。

!?

うそだろおい。

なぜあの子が急に背を向けて走り出し・・・逃げ出したのかは分からないが、今俺にできるのはあの小さな背中を追うことだけだ。

「ちょっと、待ってくれ!!」

背中に隠したノコギリ鉈を急いで携え、走り出した。




「やあああああ来るなあああああ!!!」

「頼む待ってくれ! 話を聞いてくれ!」

悲鳴は湿った家屋を揺さぶり、俺の主張をかき消す。

もう3分は走っている。

あの子の健脚は未だ健在。

こっちの体力が先に尽きてしまう。

無尽蔵の子どものスタミナに、大人が勝てるビジョンが見えない。

というかなんであの子は逃げ出したんだ?

こっちの獲物は見えてないはずだぞ?

不審者と見間違えられた、にしてはあの怯えた目はおかしい。

もしや俺は既に化け物にでもなっているんじゃないか?

手足は人間の薄橙色の皮膚、手足も両手両足で計4本。

喉は乾くし疲れもする。

この脇腹を締め付ける浅い息も、鼓動する心臓の感覚もある。

ここが異常な空間であることを加味しなければ、視界に入るものは基本的に元の世界と変わらない。

変わってない・・・はずだよな?

俺の認識が変わってないだけで、他の人間から見れば、もう立派な動く死体になっている・・・なんてことには・・・。

誰も自分を認識することがない世界で、果たして自分が自分である、人間であると証明できるのか。

酸欠にあえぐ体に思考が更なる負荷をかける。

だとすれば、あの子は突然現れた化け物から逃げ出しただけであり、俺は子供を執拗に追い回す恐怖の対象ってことになるのか。

延々と繰り返される路地。

終わりのない水路。

誰一人姿を見せない木造の家々。

死臭振りまく犬のような何か。

何が起こってもおかしくはない。

ここで異常なことがあっても、それはむしろ正常というものだ。

俺がまだ精神だけでも人間いられていることの方が不思議なくらいだ。


『お前はずっと昔から人でなしだろ?』


・・・もう手遅れになっていることにも気付いていないかもしれない。

だからこそ、そのためにも。

あの子に追いつかなければ。

俺が今、何になっているか。

どう映っているのか。

確かめなければいけない。


「うわっ!」

小さな体が地面に転がる音。

あの角を曲がった先でこけたようだ。

今、ここで追いつく。

赤熱する足首の痛みを堪え、最後のスパートをかける。


やっと追いつ・・・!?

角を曲がっても変わらない木塀で囲まれた路地。

一本道には俺とあの子と・・・。


「ぐヴぁウ゛!!!」


か弱い子供の悲鳴に誘われた忌々しい四つ足の獣が、幼い命を屠ろうと襲い掛かっていた。




「うおおおおおお!!!!!」

抱えた荷物を投げ捨て、間一髪のところで踏み込めた。

脆い反動が伸ばした両手を震わせる。

暗い目元に一撃、鉈の刃が食らいついた。


「ぎゅヴぅンっ!」

死にぞこないにふさわしい、薄汚い断末魔。


「ふんっ!!!」

手のひらを貫く硬い衝撃。

黒い腔内から飛沫が上がり、荒れた地面に華を描く。

割れた頭蓋の中は艶やかなピンクと青が微かに蠢き、生命の終わりを告げていた。


「はあっ! はあっ!! はぁっ!!!」

思ったより鉈の切れ味が悪い。

何度振り下ろしても伝わるのは無機質な破壊音だけ。

肝心の血に汚れた毛皮までは断ち切れていない。

胴体をいともたやすく両断したノコギリの方でやるか?

しかし柔らかいものを切れるかどうか・・・。

「あ・・・あぁ・・・」

背後で震える声。

ああ、そうだった。忘れてた。


「なあ、変なこと・・・聞いてもいいか?」


「ぇえ・・・うん・・・」


「俺は、まだ人間か?」

冷たく濡れたこの顔は、どう映っているのだろうか。








「殺されるかと思った・・・」

「す、すまんな。まさか顔まで血塗れだとは・・・」

ワイシャツの裾が赤黒く染まる。

さっき潰したばかりの化け物犬の血と、最初に倒した化け物犬の血。

最初の返り血は固まり始めており、面の皮が剥がれるかと思うほどに強く擦らなければならなかった。

「でも、ちょっとカッコよかった!」

「やめろやめろ。血塗れ姿なんか親御さんが見たらびっくりしちまうだろうが」

冷たい鮮血は早朝に浴びるシャワーであり、凝血が拭われた皮膚は鉄分たっぷりのマイナスイオンと共に呼吸を再開する。

「こんなもんか?」

「大体落ちたよ。おじさん、怪我はしてないんだね」

「ふふっ、運がよかっただけさ」

まだうっすらと脂が纏わりつく感覚がするが、これを落とすために水を使ってはいられない。

慣れるまで今しばらくの辛抱だ。

「それ僕の水筒? 拾ってくれたの?」

「ん? ああ、道端に落ちてたんだ。ほら、返すよ」

「ありがとう、おじさん! よかった~」

少年は受け取るや否や手早く蓋を開け、ゴクゴクと喉を鳴らす。

やはりこの水筒、この子のものだった。

・・・中身が減ったことには気づかないでくれよ?

俺の体も冷ややかな水分を欲していたが、子供に頭を下げて頼める状況じゃない。

奪うなんてもってのほかだ。

大人は辛いぜ。

「おじさんも飲む?」

これはこれは。

ありがたく頂戴しよう。




「坊主、お前も迷子か?」

「うん。おじさんも?」

「ああ。もう3時間は彷徨ってる。携帯も使えないから、助けを呼ぼうにもな」

「そうなんだ。僕も近道しようとしたらいつの間にかここに・・・」

この子も同じような状況らしい。

・・・そうだ!

「なあ、これ知ってるか?」

この路地裏に入ることになったきっかけを見せる。

いつの間にか、と言っていたが、ここに入るには何かしらのトリガーがあるはずだ。

原因が分かれば、脱出の糸口も見えてくるかもしれない。

「ん? あ、Zダンガーの付箋! おじさんも持ってるの?」

「いや、これはここに入る直前に拾った物なんだ。お前が書いたやつか?」

「え、う~ん・・・。僕の字、かなぁ?」

手に取って眺めているが、返答は曖昧。

「今も持ってるけど、ここでは何も書いてないよ?」

「そうか・・・」

書いた本人ではなさそうだ。

しかも拾った人間が迷い込む、といった呪いのアイテムでもなさそうだ。

可能性の火が1つ消える。

もう真っ暗闇だ。

残る手がかりはこの少年だけ、か・・・。

うーむ・・・。

とは言っても、この子もまた俺と同じこの異世界への漂流者。

まだ未成年の子供からすれば、やっと頼りになる大人が来てくれた、と思うはずだ。

なんの手がかりも見つけていない、ただの凡人なんだがな。


「ねえねえ、おじさんもダンガー好きなの?」

こちらの悩みは露知らず、人懐っこい目で俺を見つめる。

「んあ? まあ、それなりにな」

「そうなんだ!じゃあ好きなMB(モビル・ブレイバー)とかある?」

こいつこの状況でそれを聞くか?!

しかも黙って聞いてりゃおじさんおじさんって・・・。

「あのなぁ、俺はまだ25だぞ?」

「25って、もうおじさんじゃないの?」

このガキ、初対面のくせに馴れ馴れしいな。

だが俺も立派な大人だ、この程度の子供に煽られ、心乱されはしない。

「仮にも年上だ。さんを付けろさんを」

「じゃあおじさんさんね! あははは!」

ケラケラと笑う少年に沸々と怒りの感情が募っていく。

はったおされたいのか?

さっきまでションベン漏らしてそうな泣きべそだったくせになんだこの態度は・・・。

「いいか糞ガキ、俺の名前は義行だ。さんをつけてみろ?」

「はい! ヨシさん!」

怒りを通り越してもはや反論する気力もない。

まあいいか、生意気だが及第点といったところだ。

これ以上言い争っても、俺の毛根が死滅するだけだからな。

「あ、僕も糞ガキじゃなくて、ヒロって名前がついてるよ?」

「よし、ヒロ。今の状況は分かっているな?」

「2人そろって迷子でしょ」

「その通りだ。俺たちは今すぐにでも、この迷宮を脱出しなければならない。分かるな?」

「はい!」

「いい返事だ。まずは手持ちの道具で使える物があるかの確認だ。何か持ってるか?」

「ちょっとしかないけど、Zダンガ―の付箋と、鉛筆と、水筒です!」

首から下げている水筒とは別に、パンケーキのような丸い財布を叩く。

「携帯は持ってないのか?」

「うん、携帯はお父さんだけもってるよ」

現代っ子ならキッズケータイぐらいは標準装備かと思っていたが、無いものは仕方がない。

「分かった。なら、この路地の地図を作るぞ」

「地図? どして?」

「俺がこの曲がりくねった路地に来る前、こことは違う空間に居たんだ。そこはずっとループしていたが、さっきの化け物犬に追いかけられてここに来たんだ」

「じゃあ、さっきのワンコを倒したから、次の空間?にも進めるんじゃないの?」

「それはまだ分からない。だから、同じ場所をぐるぐる回らないように地図を作るのさ。それにはヒロ、君の力が必要不可欠だ。力を貸してはくれないか?」

膝をつき、子供の目線で協力を申し出る。

「うん!うん!僕に任せてよ!」

大人に頼られたのが心底嬉しかったのか、少年は目を輝かせ、何度も首を縦に振った。

これで肉体労働と頭の体操とはおさらばだ。

インターネット社会ですり減った記憶容量を補完する筆記用具の登場は大きな一歩だ。

「さあ、行こうか」

「よーし!」

新たな仲間が加わり、賑やかになった迷子御一行。

人手が増えたところで、この空間から抜け出せる保証はない。

だが精神的にはこれ以上ない一歩だ。




「ヨシさん、それ持とうか?」

「ああ、助かるよ」

抱えていたプラモデルの箱をヒロに手渡す。

片手に収まる程度の大きさだが、ヒロを助けた時みたく両手で握って踏み込むこともある。

ヒロの体格からしても邪魔になる大きさではない。

いざとなれば前に出る者として、片手が自由になるのはいろいろと好都合だ。

「これ何が入ってるの? プチプチにいっぱい包まれてるけど、大切なもの?」

「秘密だ。ここを出れたら教えてやる」

「悪い顔。ちぇーつまんないの」

「そういうな。こんな場所、誰かに会えただけでも奇跡みたいなもんだ」

「そうだけどさー」

ぶつぶつ小言を漏らしながらも、秘密の荷物についてあれこれ考えを巡らせていた。

「ザッグかな?でも赤っぽいし・・・ジョア専用?もう売ってなかった気がするんだけどな・・・」

「はいはい、メモを忘れないでくれよ。次45と46の間、行き止まり」

「分かってるよー。45と46の間っと」

俺たちはジャングルのように入り混じる脇道には入らず、蛇行した水路沿いの本道らしき場所を進んでいた。

脇道への角や分岐路がどこにあったかを通し番で記録し、同じパターンが来るまで続ける戦法だ。

「ヨシさんこの鉢植えとか壺とか、全部並べてたんでしょ? 目立つの1個でよかったじゃん」

「あの時は俺もどうかしてたんだ。笑わないでくれよ」

最初に実践した荒唐無稽な記録術よりも圧倒的に効率が良い。

一区画の区切りが分からないため10棟ずつ記録を始めていたが、ものの数分で4区画の記録が終了し、5区画目も終わりに差し掛かっている。

「次で50か。まだ何も無いみたいだな」

「全然バラバラだね。あと何回やればいいのかな?」

「最初の時は10か11か、それくらいだったな」

「それが終わったら、ワンコ登場?」

「こっちが見つけなきゃいけないのかもしれない。見つけたらすぐ逃げるんだぞ?」

「かけっこは得意だけど、ワンコも足早いよ」

「その時は、こいつで追い払ってやるさ」

手にしたときから随分と血に汚れたノコギリ鉈。

鉈の刃は未だ鈍い銀色の箇所が多いが、刃こぼれだらけでとてもじゃないが切断には使えない。鈍器としての役割がメインだ。

錆びの浮いたノコギリ刃の方がよく切れるなんて今でも信じられない。

よく切れるなんてもんじゃない。

初めてこいつを振るった時、肉を断ち切る感覚なんて一切無かった。

鉈で頭を叩き割った衝撃は、まだ少し残ってるっていうのにな。

両側に異なる牙をあつらえた1枚の鋼板。

これもきっと、この空間特有の異常物体だ。

だが手放す訳にはいかない。

少なくとも元の世界に帰るまでは・・・。


「ヨシさん待って! なんか臭う!」

ヒロの緊迫した声に歩みを止める。

何も感じない、僅かなカビと湿った空気の臭いがするだけ。

「ヒロ、後ろに」

「うん」

子供の感覚は馬鹿にはできない。

大人は過去の経験から些細なことは無意識に知覚しないようになる。

子供はあらゆるものに興味を惹かれるため、微細な変化にも気付きやすい。

ここはヒロの感覚を信じよう。

「さっきの道まで走れるか?」

「できるけど、ヨシさんは?」

「1体なら・・・うっ」

ヒュ~っと正面から抜ける生臭いそよ風。

風上、あの曲がり角から何かが来る。

「合図したら走れ、いいな」

「わかった・・・」

汚染された空気がジワリと漂う。

音も無く、姿を現した。




でかいな・・・。

仕留めた2匹よりもふた回りは大きい体躯。

案の定毛皮は爛れ、動く腐肉同然の容姿。

しかしながら醜く裂けた両の顎は人間の頭を丸のみできるのではないかというほどに膨れ、肥大化していた。

不揃いな歯はノコギリのようであり、不規則に動く黒一色の目玉は2度3度とこちらに焦点を合わせる。

もはや犬と呼べるのは毛皮の残った膿だらけの体だけであり、頭に関しては人の鼻と口を無理やり引き延ばしたと説明した方が納得いく、おおよそこの世の生き物ではなかった。

ここは先に、ヒロに退路を探してもらって、そこから――


「がヴぁオ゛おぉォーン!!!」


聞くに堪えない不愉快な遠吠え。


こいつ、まさか・・・?

「ヒロ!! 走れ!!!」


壁を越え、屋根を越え、影を越え。

化け物たちが次々と姿を現す。

一様に狂った眼で俺を見上げ、見下ろし、醜悪な嗤いを曝け出す。


この数は無理だ。

敵意むき出しの獣に背を向けるのは悪手だが、今はこれしか道はない。

「ヨシさん早く!!」

ひとつ前の区画の曲がり角、ヒロが早く早くと手を招く。


「ギゃヴおーン゛!!!」


2度目の遠吠え。

襲撃の合図。

背後から迫りくる無数の爪音と入り乱れる呼吸音。


今はただ、走れ。







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