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路地裏

 くそっ


 くそっ!


 くそっ!!


 くそっ!!!


 なんで!!!!


 なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ!!!!!



 チャッ チャッ チャッ チャッ

 徐々に大きくなる爪が地面を掻く音。

 あいつが確実に迫ってくる音。

 俺の足とは違い、動かせば動かすほどあいつの足は速くなる。

 正面に道は塞がり、右に曲がるしかない。


「くぅっ・・・!」

 木塀にぶつかりそうになるもギリギリで方向を変えた。

 左手が掴んでいたプラモデルの入った袋が慣性に耐えきれず、指の傍で千切れる。

 壁に激突する袋。

 だが今は逃げることが先だ。


 後で必ず・・・!!

 断腸の思いでプラモデルを見捨て、来た道を一瞬だけ振り返る。

 あいつの禍々しい両顎と舌が先ほど曲がった家の角から覗いていた。

 あの家からこの曲がり角までは10メートルもない。

 急いでどこか安全な場所に、できればあいつが上ってこれないような足場があれば。


 視線を正面に戻す。

 しかしこの行動は間違いだった。


 えっ・・・!?


 道は閉じていた。

 高く積まれたコンクリートブロックが行く手を阻む。


「うそだろおい・・・」


 半ば衝突気味に壁に手を当てる。

 硬く、重く、冷たい壁。

 空手やカンフーの達人ならまだしも、ただのサラリーマンにこれをどうにかする力は無かった。


 脇道は、どこか通れる道は?

 閉じた道の両側は民家のまっすぐな木壁が立ち並び、部外者を拒絶している。

 身を隠す場所も、登れる場所もない。

 民家には窓があるが、頭しか入らないであろう大きさしかない。

 はやく、なにか、あいつから逃げる方法は・・・。

 想像力が不安を増長し、恐怖が思考を支配する。


 逃げる。

 どうやって?

 逃げる。

 どこに?

 逃げる。

 どうやって?

 逃げる。


 思考放棄の無限回廊。

 生への執着が足枷となり、遂にその時がやってきてしまった。



 ヴぁヴぅ!!!



 晴れていれば、ヒーロー満を持して登場!みたく、少しは神々しく映っているのに。

 背景の曇り空から降り注ぐか細い光は、追跡者の悍ましい輪郭を嫌というほど繊細に描いていた。







 ~数時間前~


 静かな白壁の民家とブロック塀に囲まれた影の世界に踏み込み、最初の角を曲がる。

 路地にしては不自然なくらいに広い空間に出た。

 踊り場のような空間は一本道になっており、どこかの家の庭、という訳でもなさそうだった。

 真っ黒なアスファルトの路地ではなく、うっすらカビの生えたコンクリートが大部分を占めている。

 大きな亀裂はないが、端の方は所々崩れており、赤色の地面が見えてしまっていつ箇所もあった。


 そしてこんな暗い場所に似つかわしくない花束が1つ。

 花々は少し元気を無くしているが、未だ美しい色彩を保っている。

 何か事件が起きた場所なのだろうか。

 先ほど拾った手紙と花束の置かれているこの状況を照らし合わせる。

 ・・・流石にそれはないか。

 添えられた花束を横目に先を急ぐ。

 踊り場の先には曲がり角。

 先ほどまで歩いていた住宅街の路地に繋がっているようだ。

 警戒心むき出しで勇んだが、影の世界の正体はコンクリート床の空き地のみ。

 よかった、助けを求める人はいなかったんだな。

 そう思えていればどれほどよかったか。

 骨折り損だな、こんな陰気な場所さっさと抜け出して駅前にレッツゴーだ。

 自分から首を突っ込んでおいてその言い草は無いだろうと、我ながら意地の悪さに嫌気が差す。


 踊り場を抜け、元の明るい路地へ。

 行き止まりがあっても、また引き返せばいい。

 至極当たり前の感覚。

 故に俺の足は止まった。


 曲がり角の先。

 陽の差す路地ではなかった。

 しかし行く手を阻む壁があるわけでもなかった。


 目に飛び込んできたのは色褪せた景色だった。


 緑と黒に縁取られた石積み。

 舗装が崩れ、下の赤土の地面が露出しているコンクリートの地面。

 錆びと青斑の塗装が残ったトタンの壁。

 道の右手を流れる大きな水路。

 先ほどまで元気だったお天道様はどこへ行ったのか、うっすらカビと埃の臭いが漂う日陰の世界が広がっていた。


 どう考えても異常事態、すぐさま引き返すべき。

 直前に切れた警戒の意識はなぜか眠ったままであり、今起こっている状況のありのままを受け入れていた。


 地元の長崎にもこんな昭和で時が止まっているような場所はいくつかあったが、

 東京の、しかも住宅地の裏手にこんな空間が広がっているとは、思いもよらぬ発見だった。

 人に溢れ、騒がしい雰囲気に長く居られない俺にとって、この空間リミナルスペースは心落ち着く場所だ。

 そろそろ脱ごうかと思っていたウィンドブレーカーを羽織ったままでも快適な気温とわずかに流れる生活排水のマイナスイオンは、森林浴にも似た安息を演出していた。



 水路に沿って歩みを進める。

 3mはある深い水路の底は藻類で埋め尽くされ、水も彼らをほんのり濡らす程度しか流れていなかった。

 水路の向こう岸にも石積みがそびえ立ち、違法建築と言わんばかりに増改築が繰り返された錆色のボロい家?の基礎の役目を果たしていた。


 道沿いの左手方向には築60年ぐらいの古びた民家が立ち並ぶ。

 どこも留守のようであり、明かりのひとつも無かった。

 軒下に並べられている瑞々しい観葉植物や、立てかけてある竹ぼうきから生活の跡を感じることはできるが、家屋はしんと沈黙を続けていた。



 ・・・・・・。



 路地は緩やかなカーブを描いており、民家も水路もそれに沿って続いていた。



 いや・・・まさかな・・・・・・。



 そう、どこまでも続いていた。



 嘘だろ? 



 正気を取り戻すまでに、いったいどれほどの時間を要しただろうか。



 なんで?



 俺がこの異常な現実を直視するまでに、理解するまでに。



 待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て――――



 何度曲がり角を曲がっただろうか。



 落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け――――



「誰かーー! 誰かいませんかー!!!」


 絶叫は灰色の世界にこだまするも、返事が返ってくることは無かった。

 焦りが心臓を締め付け、もっと早く動け、もっと遠くへ行けと急かす。

 しかし駆ける両足に意味は無く、荒れた息と疲労が重くのしかかるだけだった。







 俺はうずくまっていた。

 膝のでっぱりを目に押し当て、痛みによる視覚機能のリセットを試みる。


 これで良し。

「ふうぅーーーーー」


 背筋を伸ばし、深呼吸もバッチリ。

 さあ、出口はどこだ?


 正面、トタン貼りの物置き。


 右、緩やかな道。


 左、緩やかな道part2。


 後ろ、錆びて折れた柵を放置している水路が1つ。


「だあ゛ぁ~~~~~~~~」


 道のど真ん中、手足をまっすぐ伸ばし、大の字で寝転ぶ。

 人目を気にすることなく脱力するその姿は、無言の抗議として駄々を捏ねる子供そのものである。


 さて、どうするか・・・。

 一時はパニックに陥ったものの、全力疾走による血液と酸素の循環が功を奏したのか、冷静に今の状況を分析できた。


 まずは電話。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、ホームボタンを押し込む。

 先ほどと変わらず、反応は無い。

 充電はかなり余裕があったはずだが、この謎の空間が電子機器の存在を認めていないのか、腕時計とワイヤレスイヤホンも同じように息を引き取っていた。

 おかげさまで今が何時かも分からない。

 この空間が外と同じ時間で経過しているのであれば、最悪明日には上司が異変に気付くだろう。

 まあ警察による捜索が始まったとて、ここまで探しに来るとは到底思えないが。


 次に食料。

 ここでしばらく彷徨うとして、一体何日彷徨うことになるだろうか。

 生憎行動しやすいようにとお土産の入ったバックパックは駅前のコインロッカーの中だ。

 今ある栄養源は、胸ポケットに入った柑橘餅だけ。久しぶりに口にしたいと思い、あのステーキハウスでたまたま買っていた。

 未開封のため、オブラートに包まれた一口サイズの餅が8個。

 これだけだと精々1日2日、と言ったところか。

 水もコンビニで買っておけば良かった。

 走っていた時間は短く、この涼しい空気も相まって汗もあまり出ていなかったが、水は必須だ。

 柑橘餅を食べれば多少は水分の排出を抑えることはできるが、余り当てにしない方がいい。

 最悪、そこら辺に生えている草でもしゃぶるか・・・。


 そして、この空間。

 少なく見積もって1kmは移動したが、一向に元の世界にたどり着く気配がない。

 数年前に出たゲームに、同じ景色が続く奇妙な廊下で間違いを10回見つけて引き返すと外に出ることができる、なんてものがあったっけ。

 その法則に従えばこの空間にも変わるところ、変わらない所があるはずだ。金持ちの悪質な演出という可能性も、まだ捨てきれないからな。

 まずは、その確認からだな。


 ひとまずの目標。

 命のタイムリミットに対して悪あがきにしかならないと思うが、とりあえず死にかけるまでやってみるというのが俺の信条だ。

 もしそんな時が来たら・・・・・・。

 ・・・その時考えよう。

 幸い、ここには俺を害する者は今のところいない。ゲームだったらホラー演出付き即死ギミックの1つや2つあるものだが、目にしてきたは物は全て安全だ。

 背面に付いた砂を払い、来た道を振り返る。


「よし、間違い探しの始まりだ」








「おいおい、マジかよ・・・」

 意気揚々と立ち上がってから多分1時間が経過した頃。

 民家の縁側に腰を下ろし、俺は再び頭を抱えていた。

 書くものもカメラもないのに、硬い記憶力がいくつもある民家の装飾すべてを覚えることなど不可能に近い。

 それでも何とか見つけ出してやろうと、躍起になってすりガラスの模様や軒先に置いてある陶器の数を頭に叩き込んでいた。

 そしてふと「これ全部道の真ん中に並べた方が分かりやすいんじゃね?」と、角から次の角までの全ての家の道具や植物、置物を並べていった。


 この区画の家は5件。

 最初の家は草花箒箒。

 2件目は花じょうろ。

 3件目は木のざる。

 4件目はでか水瓶パイプ。

 5件目は草箒赤サンダル。

 水瓶は中に泥が詰まっていたため、突き刺さっていた雨樋を並べた。

 重労働ではあるが身体でも数を覚えることができる。


 複唱しながら角を曲がり、次の区画へ進む。

 ざっと10回繰り返したが、同じパターンの家は1つも無かった。

 本当に間違えが存在するのか、もしや家財は間違いにカウントされないのではないか。

 疑問は尽きないが、ひとまず次の区画に進むことにした。


 民家を曲がった瞬間、その異常が脳を混乱させる。

 既に道端にいくつもの家財が並べられていた。

 急いで駆けつけ、種類と数を数える。

 1件目は無し、2件目と4件目にサンダル、5件目に熊手がある・・・ということは多分、6つ目の区画?

 さらに次の区画に進む。

 3件目にぼろサンダル、さっきやった10週目か・・・。

 さらに次の区画へ。

 草箒箒、じょうろ、ざる、水瓶とパイプ、赤サンダル。

 最初の・・・区画・・・。

「ぬああぁ~~・・・」

 再び大の字に寝そべり、恐怖に歪む顔を押さえる。


 ループしている。

 しかもランダムに。

 この事実は、俺の志を打ち砕くには十分すぎた。

 まだ新しい区画が登場し、絶対に構成の内容は被らないとかならどれだけよかったか。

 こんなにも早くに終わりが見えてしまうだなんて・・・。


 ・・・いや、まだ試していないことがある。

 腫れた目を擦り、観葉植物の植えられた鉢植えを手に玄関の前に立つ。

 区画をチェックしている最中、中に入れないか何度か扉に蹴りやタックルを仕掛けていた。

 だがガシャッと立て付けが揺らぐだけであり、何度試しても細木はおろかすりガラスに傷ひとつ入ることはなかった。


 ならばこちらの空間の物品なら・・・。

 鉢植えを頭上に大きく持ち上げる。

 しっかりと重みのある陶器の鉢。

 強化ガラスでも耐えられまい。

 それにこんな異常世界に、器物損壊があってたまるか。

「ふんっ!!!」

 一枚のすりガラスめがけて鉢植えを投げつける。

 渾身の一撃。


 ガッ!

 ゴトッ・・・


 あっけなかった。

 どちらが砕けるわけでもなく、鉢の土が少し零れる程度の結果に終わった。

「はあ゛ぁ・・・・・・」

 頭を抱え、うなだれる。


 水路は入れば二度と上がっては来れない。

 万が一水かさが増せば、一瞬で足を取られて溺れるのは必至。

 二階に上がろうにも、軒を支える柱を登ってもネズミ返しのような屋根がそれを許さない。しかも足場になるものもない。


 万策尽きた。

 あとは頭から水路に落ちるか陶器の破片で喉を掻っ切るか。

 選択肢は残っていなかった。


「・・・なあ、どうするよ?」

 片時も手放さなかった袋に話しかける。

『安心しろ、私にいい考えがある。ついてこい!』

 なんて、赤い流星のジョアが応えてくれるはずもなく。

「ここから出る方法が見つからなかったら、お前が俺の遺作になるってことで。ヨロシク・・・」

 緩やかに迫る死を実感し、やさぐれた独り言を放つ。


 左胸のポケットにまさぐり、柑橘餅を手に取る。

 フィルムを向き、底の仕切りを引っ張り出す。

 8個並んだオレンジ色のオブラート。

 汚れた手のまま1つ、口に放り投げる。

 残り7つ。


 パリパリとオブラートが唾液に溶け、次第に甘い蜜柑の香りが口内に広がる。

 最期の晩餐がこれ・・・か。

 何もないよりはマシと言い聞かせる。

 もう、どうしようもない。

 目を瞑り、絶望に体を明け渡す。

 餓死って・・・どんな感じなんだろうか・・・。

 いつもなら眠れなくなるほどに、考えるだけで恐ろしい思索。

 俺の体からゆっくりと緊張がほぐれていくのを感じる。

 死を受け入れる準備。

 走馬灯は何が見えるんだろう。

 あれこれ考えるうちに、疲れが意識を奪った。







『・・・す・・・・・・て・・・』


「っ・・・!」

 誰かの声。

 静寂な微睡みの中に響いた異音。

 確かに聞こえた。

 いや、ただの夢か?

 全神経を耳に集中させ、音の出どころを探る。


「・・・た・・・けて・・・」


 聞こえた!

 誰かが、この空間に居る!

 静まり返った民家の間から届く小さなSOS。

 助けを求める声だったが、それはこちらも同じ。

 今は誰かいるだけでも心強い。


「待ってろ! 今行くぞぉー!」

 相手に届くように、返事が来ることを期待して声を上げる。

 しかし待ってはいられない。

 声の聞こえた方向は先の区画。

 誰かが迷い込んだのか、それともループの間に新しい区画が作られたのか。

 どちらでもいい。

 今すぐに会いたい。

 袋を掴み、寝起きとは思えない速さで走り出す。

 待ってろ、今行くからな!



 曲がった先、案の定新しい区画だった。

 こんなにも大きく蛇行した民家の並びは初めてだ。

 水路は相変わらずだが、民家の軒先が地面に付きだしたり、引っ込んだりしている。

 大きく曲がった箇所はこの位置からでは見えない。


 クチャッ チャッ

 す・・・・・・て


 ぬかるみを潰す音と共に再び声が聞こえる。

 近い、この先だな!

 胸が躍る。

 何の解決になるか分からないが、少なくとも精神的にはマシになるはずだ。

 浮足立った俺はにこやかにうねった道を進んだ。


 先ほどまで見えなかった大きくうねった箇所。

 民家のあるはずの場所に地面、水路沿いの道とは別の民家の間を通る別れ道になっていた。


 クチャッ クチャッ

 ・・・ぐぅ・・・・・・ひゅー・・・


 咀嚼音にも似た不快な響き。

 先ほどまでは一切なかった形容しがたい臭い。

 笑顔はすでに崩れており、腰を低く保ち、警戒の構えをとっていた。


 奥は行き止まり。

 深い影の先。

 何かがいる。

 動いているところから、生き物であることは分かった。

 しかしあれは・・・。


「あ、あの~」


 クチャッ・・・

 フー・・・


 音が止む。

 何かが振り向く。

 路地側から差すわずかな光によって、真っ暗な道に輝く瞳を浮かび上がる。


 人間でない。

 影に潜む輪郭が小さすぎる。


 影が近づき、形を得る。

 近づくほどに曇天の光に照らされる。

 頭の上から生える耳。

 細い4本の足。


 更に近づき、色を得る。

 赤と茶が混じる湿った毛。

 毒々しい紫が脈打つ血管。


 影はその全容を現す。

 だらりと垂れた長い舌。

 黒い粘液にまみれた鋭い牙。

 身体のあちこちから剥がれた皮を引きずっている。


 犬


 犬?

 ゾンビの方がまだ近い。

 化け物じゃないか。

 腐肉と膿が濃縮された刺激臭に思わず顔の下半分を抑える。


 こいつは、なんだ?

 いや待て、さっきの声は?

 暗順応の終えた目を化け物犬の背後に向ける。


 散乱する肉片、肉塊。

 飛び散った血がここで何が起きたかを物語っていた。


 それだけでは済まなかった。

 長い毛が伸びる先の球体。

 下あごが消えた、まだ幼い少女の生首。

 虚ろな彼女と視線を交えてしまった。


 やばい。

 全身の毛が瞬時に逆立つ。

 この場で留まる選択をした未来を見てしまった。

 抜けそうな腰をなんとか踏みとどめさせる。


 グヴぁう!びゃグう!!


 化け物犬が吠える同時、一目散に走り出した。





 はあっはあっはあっはあっはあっはあっはあっはあっ――


 息を取り込む間もなく、ただただ転ばないことを祈りながら足を動かす。


 チャッ チャッ チャッ チャッ


 化け物犬の爪が舗装された地面を蹴る音。

 臓物色の不衛生な口を開き、俺を追っている。

 大型犬ほどではないものの、あんな奴に噛まれでもすれば喰われなくても命の保証は絶対に無い。

 狂犬病が生易しく見える。


 緩やかな終わりは受け入れたが、あれに喰い殺されるなんてことだけは死んでもごめんだ!


 元来た道を戻っているが、幸か不幸か道端に並べた家財は全て無くなっている。

 あればあいつの妨害に使えたか?

 いや、俺の足を絡めるだけだ。

 誰かは知らんが有り難い。


 チャッチャッチャッチャッ

 徐々に大きくなる爪が地面を掻く音。

 あいつが確実に迫ってくる音。

 俺の足とは違い、動かせば動かすほどあいつの足は速くなる。


 正面に道は塞がり、右に曲がるしかない。


 くそっ


 くそっ!


 くそっ!!


 くそっ!!!


 なんで!!!!


 なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ!!!!!







 遂にその時がやってきてしまった。



 ヴぁヴぅ!!!



 背景の曇り空から降り注ぐか細い光は、追跡者の悍ましい輪郭を嫌というほど繊細に描いていた。


 ハッハッハッハッハッハッ


 頭の後ろまで裂かれた口は鋭く、血の滴る刃歯が並ぶ。

 逃げ場のないターゲットを追い詰めた殺人鬼のような嗤い顔。


 チャッ・・・


 やつがゆっくりと動き出す。


 どす黒く血走った眼に背筋が凍り付く。

 狭まった視野で通路を見渡すが、登れる場所も、身を隠す場所も無かった。


 飛び掛かった瞬間を狙って蹴り飛ばすか?

 いや、ウィンドブレーカーを腕に巻いてわざと噛ませて押さえつけた方が・・・

 も う そ ん な 暇 は な い!!!


 チャッ・・・


 チャッ・・・


 チャッ・・・


 着々と距離は縮まる。


 木の棒でも箒でもスリッパでもなんでもいい!

 せめて何か、何か使える物は・・・。

 アドレナリンで満たされた脳みそが決死の力を振り絞る。




 左手の壁に何かある。

 必死に目を凝らす。


 廃棄され、朽ち果て、力任せに破壊されたロッキングチェア。


 折れた木材の破片の中、鈍い銀の光を放つ何かが刺さっていた。


 幾重にも紐が束ねられた柄。

 僅かに曲率を有する金属の光沢。


 鉈


 崩れたロッキングチェアの木片に囲まれたその太刃は、今の俺にとって先祖代々祭られてきた伝説の武器だった。




 チャッ


 やつとの距離は、まだある・・・!

 3歩踏み出せばあれに届く。




 チャッ


 チャンスは・・・これ一回限り。


 ゴクッ・・・!


 鉛のような生唾を喉奥に押し込める。




 チャッ

「くぅっ!」

 両手で体を前に押し、一気に距離を詰める。


 ヴあぅ!!

 やつもすかさず体をかがめ、飛び掛かりの態勢に移るも


「しゃあ!!!」

 右手がしっかりと獲物を捕らえた。



 一手、先を取った。




 しかし、抜けない。

 どれだけ深く刺さっているのか、鉈は微動だにしなかった。


 お願いだ!

 頼む!

 切先の見えない伝説の武器は沈黙を保ったまま。



 懇願虚しく、顔面めがけて飛び掛かる化け物犬。

 目と鼻の先、腔内から漂う腐臭の吐息がかかる。




 死にたくない!!!



 喉奥の深淵がはっきり視認できる距離。


 もう・・・ダメだ・・・!

 恐怖に屈した俺の目は走馬灯すら写さなかった。






 ガッ


 解放された鉈の背は爆発的な速度で空間を切り裂く。


 ギャう゛ッ!


 刃が無いはずのその背は、宙を舞う胴体に喰らい付き


 ジャギン゛!!!


 両断した。










「~~ってぇ・・・・・・」

 鉈が抜けた反動か背中と尾てい骨を強打する。

 数秒目を瞑っていたが、続く痛みも悪臭を放つ吐息も感じられなかった。


 助かった・・・のか・・・?

 恐る恐る瞼を持ち上げる。


 目の前には犬の下半身と呼べる場所が墨汁色の体液を漏らしている。

 通路の奥、つい先ほどまで俺が絶望した場所には、あんぐりと狂気の表情を浮かべ微動だにしないやつの姿があった。


 やった・・・!

 やったやったやったやったやっ――


「ゲㇹオッ!オ゛ホッ!ガハッ! エ゛ッ・・・」


 肺が命を繋ごうと喉を裂く感覚。

 死闘を制した勝利の余韻に浸りたかったが、酸素を使い切った身体はそれどころではなかった。


「かひゅ・・・かひゅ・・・ひゅ・・・」

 自然と締まっていたネクタイを引きはがし、気道を確保する。

 喜ぶのは後回し、しばらく休憩だ。






「はあ・・・・・・」

 やっと呼吸が落ち着きを取り戻した。

 それはそれで死臭を醸し出す化け物犬がまだそばにいるという状況を教え、同時にまだ命があることを伝えてくれた。

 ゾンビのような見た目をしていたため、てっきり首だけでもこちらに噛みつきやしないかと思っていたが、生命力は並みの生物と変わらないようだ。


 にしても本当に死んだかと思ったぞ、今の・・・は・・・。

 命の恩人である伝説の剣、いや鉈に礼をしようと右手に視線を落とす。


 鉈ではある。

 錆に覆われた、刃渡り40センチはある大振りの鉈。

 問題はその太い刃の反対側、鉈の背。

 黒い獣毛と新鮮な肉片がこびりつくそれは「ノコギリ」としか言い表せない無数の小刃だった。


 ノコギリの背を持つ大鉈。

 あるいは太刃を備えるノコギリ。


 ノコギリ鉈、とでも呼ぼうか。

 静かな世界に似つかわしくない、悪意と殺意の塊。


 異質な獲物は、憔悴しきった俺に「生きろ」と囁く。

 返り血を浴びた左手が柑橘餅の箱を取り出す。


 1つ、口に放り込む。

 噛みしめるほど、どこからともなく勇気が湧いてきた。

 残り6つ。


「そんじゃ相棒、よろしくな」

 心強い味方に、不敵な笑みを送る。


 軽くなった腰を上げ、仄暗い路地へと向かう。

 一時手を離れた、大切な戦利品が淡い日光に照らされていた。


「やっべ!」


 急いで駆け寄り、中を安否を確認する。

 過剰なぷちぷちに包まれたプラモデルに傷が入る余地はなかった。


「店長、ありがとう・・・!」

 空に浮かぶつるピカ頭の店長に感謝を伝え、持ち手のなくなった袋を抱える。


 さてと・・・。


 逃げることに必死で気が付かなかったが、陰気な路地は新たな景色を作り出していた。

 民家や地面、水路など路地裏を構成するものは変わらないが、道は曲がりくねり、分かれ道らしきものもある。


 次のステージに進んだ、ってことでいいのか?

 条件はさっぱりだが進展はあった。

 化け物犬に追いかけられるイベントをクリアすることが次のステージへ進む条件だとしても、もう怖いものはない。

 どっからでもかかってこいや。

 運がよかっただけだが、今はそう思い込んだ方が楽だ。


「また歩きますか・・・」


 ノコギリ鉈を揺らし、ひとり迷宮へとつき進む。






 どこかですすり泣く声がした。

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