第七話
黒い吹雪が完全に凪いだとき、そこには生命の気配が一切存在しない、絶対零度の静寂だけが取り残されていた。かつて人々の醜悪な哄笑が響いていた村は、いまや光を拒絶する漆黒の氷塊に閉ざされ、巨大な墓標と化している。
雪がゆっくりと、その深い絶望を湛えた両眸を開いた。
彼女のすぐ隣、いつの間にか歩み寄っていた炎が、肩に大刀を担ぎ直しながら退屈そうに声をかけてくる。
「――で、気は済んだか?」
その声はどこまでも軽く、男にとってはこの惨劇すらも一興の娯楽に過ぎないのだという残酷な事実を物語っていた。
雪は炎を、射殺さんばかりの昏い眼差しで鋭く睨み据える。その唇から漏れたのは、すでに人間のそれとは違う、大気を凍らせる呪詛だった。
「……今この瞬間も、刀が世界のどこかで、あの子と同じように理不尽に踏みにじられているかもしれない。私たちを拒み、傷つけるというのなら……もう、世界なんて全部、消えてしまえばいい」
「おー、こわいこわい」
炎はわざとらしく両手を挙げて肩をすくめたが、その口元は愉悦に歪んでいる。
雪はその茶化しを完全に無視し、細く白い手を、どんよりと曇る天へと向かって厳かにかざした。
刹那、世界が鳴動した。
再び巻き起こった漆黒の暴風が空間そのものを侵食し、周囲の建物の輪郭が、まるで水に濡れた絵の具のようにドロドロと融解していく。地面の色はどす黒く変色し、雪の圧倒的な憎悪と魔力に呼応して、現実の景色が霧のように形を失っていく。世界が彼女の感情のままに、作り変えられようとしていた。
だが――。
狂気的に広がり続けていた雪の魔力が、ある一点で、ふと不自然に凍りついた。
炎が細い目をさらに細め、横目で雪を覗き込む。「……どうした?」
雪の視線の先――すべてが融解し、消滅していく漆黒の吹雪の向こう側に、奇跡のように「一軒の家」だけが形を保ったまま残されていた。まるでそこだけ、雪の無差別な破壊の力が触れることを拒んだかのように。
雪は吸い寄せられるように、無言で歩き出した。
炎は「やれやれ」と小さく頭を振ると、愉しげにその後を追う。
軋む扉を押し開けて入った家の中は、ひどく質素な造りだった。
小さな木製のベッドと、古びた机。それだけだ。
しかし、その机の上には――あどけない笑顔を浮かべる一枚の女の子の写真と、綿の飛び出しかけた、古びた小さなクマのぬいぐるみが置かれていた。
アリスの家だった。
雪はその前でピタリと足を止め、彫像のように動かなくなった。
炎は部屋の隅の床に無造作に腰を下ろし、顎をしゃくりながらその背中を見つめる。
「……なんだ、ここは」
雪は答えない。ただ、少女の小さな胸を締め付けた決定的な崩壊が、静かにその肉体に現れた。
雪の右目から、ぽろりと一筋の液体が流れ落ちる。
それは、人間が流す透明な涙ではなかった。光を浴びても反射すらしない、すべての光彩を吸い込むような、底なしの「漆黒の液体」だった。
黒い涙が頬を伝い、床に落ちる。雪は、その震える手をクマのぬいぐるみへと、そっとかざした。
「アリス……」
愛おしげな呟きと共に、彼女の手のひらから濃厚な黒い霧が溢れ出し、ぬいぐるみを包み込む。
すると、どういうことか。色褪せていたクマのぬいぐるみがドス黒い影の色に変質し、内部の綿が魔力によって蠢き始め――まるで悍ましい命を宿したかのように、不気味にその手足をピクリと動かしたのだ。
死者を弄ぶようなその常軌を逸した「奇跡」に、さしもの炎も思わず身を乗り出した。
「おいおい……それはまた、随分と悪趣味な魔法だな……」
やはり、雪は答えない。アリスへの情愛の残滓すらも、いまや完全に呪いへと反転していた。
彼女が再び右手を大きく掲げると、部屋の壁が、天井が、そしてアリスの生きた痕跡のすべてが、今度こそ容赦のない黒い霧へと完全に溶けて消えた。
そして、その広大な虚無の敷地に、地鳴りと共にそれが聳え立った。
大地から突き出すようにして急速にビルドアップされていく、巨大な黒い氷の城。
天を突く禍々しい尖塔が伸び、強固な城壁が形を成し、闇の中に美しくも冷酷な輝きを放つ。それは、優しさを捨て去った雪の心そのものを具現化したような、絶望の要塞だった。
雪は、一切の迷いのない足取りで、完成した黒き城の奥へと歩を進めていく。
後ろに取り残された炎は、圧倒的な光景に短く口笛を吹いた。
「すげぇな……白い器。ほんと、どこまで狂っちまうんだ、お前は」
歪んだ歓喜を瞳に宿し、炎もまた、その闇の深淵へと足を踏み入れた。
静寂が支配する黒い城の最奥――玉座の間。
雪は冷たい玉座の下で、自らの胸の奥で荒れ狂う「黒い渦」を押さえつけるように、小さく膝を抱えていた。
「……刀……カタナ……」
世界のすべてを憎悪してもなお、残された唯一の光。その大切な名を脳裏に思い浮かべた、その瞬間だった。
頭の奥で、ガラスが粉々に砕け散るような、強烈な激痛が走る。
「あ、つ……あぁっ……!」
雪は額を強く押さえ、獣のように荒い息を吐き出した。
(探さなきゃ……早く、刀を見つけて、ここへ……)
しかし、彼女が刀を想えば想うほど、脳内に宿る“器”の呪いが拒絶反応を起こし、激痛はさらに増していく。視界が急速にブラックアウトしていく。
苦痛に悶える雪の足元から、ドロドロとした黒い霧が立ち上り、やがて彼女の「刀への執着」を養分にして、おぞましい異形の魔物の形を成し始めた。
雪は薄れゆく意識の中で、その魔物に向かって震える声を絞り出す。
「……刀を……探して……私のもとへ……」
だが、その懇願の途中で、雪の瞳から完全に「光」が消失した。
アリスを失った痛みも、人への憎しみも、そして刀を愛していたという大切な記憶すらも、臨界点を超えた苦痛によって、すべて頭の奥の黒い渦へと飲み込まれ、消滅していく。
「……あ……。もう……どうでも、いいわ……」
ぽつりと言い放った雪の声には、もはや怒りも悲しみも、感情の欠片すら残されていなかった。
主の心が完全に壊れたその瞬間、目の前の魔物は、彼女の最後の言葉を冷酷な命令として解釈した。感情を失った雪の無関心は、魔物たちにとって、この上ない「暴虐の自由」を意味していた。
魔物は、愉悦にその身体を歪ませる。
『――探索。……ソシテ、排除』
黒い異形は、そのまま一陣の不吉な霧となり、世界のすべてを蹂躙するために城の外へと飛び立った。
心が完全に凍りついた雪は、ただ、何も映さない虚ろな瞳で、その背中を静かに見送っていた。




