第六話
意識が、泥沼のような眠りからゆっくりと浮上する。
まぶたを持ち上げると、そこには見知らぬ天井があった。木の香りが漂い、肌を撫でる毛布は驚くほどに温かい。しかし、その温もりがかえって雪の胸をざわつかせた。
昨日の光景が、毒のように脳裏を駆け巡る。
アリス。村人たち。響き渡る嘲笑。そして、胸を貫かれたアリスの冷たい身体。
「……刀……?」
雪は反射的に飛び起き、震える手で周囲を探った。だが、そこにあの少年の姿はない。
すがるような思いで部屋を飛び出し、小さな扉を開ける。
そこは小さなキッチンだった。食卓には、見知らぬ男がひとり座っている。男は獣のように肉の塊を手で引き裂き、無造作に口へ運んでいた。雪の気配に気づくと、彼はその冷たい眼差しだけをこちらに向けた。
「ようやく目が覚めたか。『白き器』よ。……まあ、座れ」
低く、枯れ葉が擦れるような乾いた声。雪は得体の知れない警戒心を抱きながらも、足元がおぼつかないまま、促されるままに椅子の席についた。
沈黙が落ちる。雪は喉の奥を震わせながら、震える声で問いかけた。
「……刀は? 私を……あの場所から連れ出したのは、刀なの?」
男は眉をひそめ、露骨に不愉快そうな顔を作った。
「刀? 誰のことか知らん。俺が拾ったのは、死に損ないの女一人だけだ」
雪はその言葉に答えず、すぐに次の問いを重ねる。
「……ここはどこ?」
「俺の家だ。あの村の連中は、俺が追い返しておいた」
淡々とした報告。男の言葉を聞いた瞬間、雪の脳裏に、アリスが笑っていた顔、そして血に染まって崩れ落ちた小さな背中が、鮮烈な映像となって蘇った。
「……あいつら……」
雪の喉から、掠れた声が漏れる。
「……許さない。絶対に……許さない……」
胸の奥から、ドロリとした黒い泥のような感情が溢れ出し、全身を駆け巡る。空気がビリビリと震え、室内の温度が急激に下がっていく。男はその異様な気配を感じ取り、興味深げに口角を上げた。
「……これから、どうしたい?」
雪は机を叩きつけ、絞り出すように叫んだ。
「まずは……あの村を。あいつら全員を……!」
怒りと悲しみが混ざり合い、その言葉は呪詛のように響く。男は一瞬沈黙した後、腹の底から愉快そうに哄笑した。
「はははははっ……! 素晴らしい」
その笑いは、雪の憎しみを歓喜と共に迎え入れるものだった。男は肉を噛みちぎりながら、凶悪な笑みを雪に向けた。
「俺の名は――炎。……見せてみろ、白い器。お前のその憎しみが、どこまで世界を焼き尽くすのか、特等席で見届けてやる」
雪の胸の奥で、静かに、しかし確実に、黒い炎が爆ぜた。
その夜、村には酔っ払った男たちの卑しい笑い声が響いていた。
「俺の矢が一番深かったぞ」
「いや、俺がとどめを刺したんだ」
「器を倒したのは俺だ、英雄だ!」
酒を回し、罪の意識など欠片もない武勇伝が、夜の静寂を汚していく。
その時だった。
ひゅう、と一筋の不吉な風が、村を吹き抜けた。
「……さむっ」
一人の男が肩をすくめ、上着を取りに家へ戻ろうとした。その足が、凍りついたように止まる。
家の影に、誰かが立っていた。
「……おい、誰だ? 酒が欲しいなら――」
言いかけた男は、その姿をはっきりと視界に捉えた瞬間、喉の奥から汚い悲鳴を漏らした。
そこに立っていたのは、幽鬼のように血の気のない顔をした雪だった。彼女は一言も発さず、ただゆっくりと、村人たちの群れに向かって右手をかざす。
その足元から、黒い霧のような冷気が、生き物のように這いずり回り始めた。
「や、やめてくれ……! 悪かった、許してくれ……!」
男が後ずさりして命乞いをする。だが、雪の表情は最初から最後まで、能面のように凍りついていた。
黒い冷気が男の足元を撫でた瞬間――世界から音が消えた。
パキ……と乾いた音がして、男の身体は彫像のように固定され、そのまま凍りつく。
雪はさらに高く手を掲げた。
次の瞬間、村全体が“黒い吹雪”に飲み込まれた。
風が唸り、冷気が竜巻となって家々を蹂躙する。灯りは一つ、また一つと無慈悲に消され、笑い声は悲鳴に変わる間もなく、漆黒の冷気の中へと吸い込まれていった。
雪は、その惨劇のただ中で、無表情のまま立ち尽くしていた。
視界の端に、あの時アリスをつけていた小さな男の子の姿が映る。雪の視線が一瞬だけ揺れた。だが、止まることはない。黒い吹雪は容赦なく彼をも包み込み、永遠の静寂へと変えていった。
やがて、村のすべてが、漆黒の氷の墓標へと姿を変えた。
遠く離れた丘の上で、炎は腕を組み、その凄惨な光景を愉悦と共に眺めていた。
「……いいぞ、白い器。そうだ、その憎しみだ。もっと見せてみろ」
夜空へと溶けていく黒い吹雪を見上げながら、男は歪んだ笑みを深めた。
かつて無垢で優しかった少女は、今や、神をも凍らせる復讐の化身へと変貌を遂げていた。




