第四話
意識がゆっくりと、深く沈んでいく。
それは心地よい眠りに落ちる、あの独特な感覚――のはずだった。
その瞬間、世界がふっと切り替わった。
雪の意識が、まるで水面に浮き上がるように急速に覚醒していく。まぶたを開けると、そこに広がっていたのは、涙が出るほど懐かしい光景だった。
創造神が降臨する前。世界がまだ、残酷に壊されてしまう前の世界。
無数の灯りが夜を彩り、賑やかな音楽が響き、人々が心から笑い合っている――あの、一年に一度の境界の祭り。
(……どうして? 私は、ここに……)
胸の奥が、じんわりと焼き付くように痛む。二度と戻らないと諦めていた幸福な記憶が、あまりにも鮮明に目の前に広がっているのだ。
そのとき、喧騒を突き破って、聞き慣れた声が響き渡った。
「ずるいぞおおおおお!!」
雪が弾かれたように振り向くと、そこには首から下をがっちりと氷漬けにされた少年がいた。祭りのど真ん中で、ひとりだけ異様な姿で浮いている。
「……え……?」
「ズルしたんだから、今回は俺の勝ちだああああ!!」
刀は氷の中で必死にジタバタと暴れながら、負け惜しみを叫んでいた。
(なんで……刀がここにいるの? ここは、私の記憶の中の祭りのはずなのに……)
現実の残酷な状況と、目の前の温かい記憶が頭の中でぐらぐらと混ざり合い、目眩を覚える。
すると刀は、氷の中から顔だけを突き出したまま、今度は顔を真っ赤にして、全力で叫んだ。
「じゃー……結婚してくれええええ!!」
その瞬間、雪の胸の奥が、冷たいナタで引き裂かれたようにぐしゃっと潰れた。
理由なんて分からなかった。ただ、堪えきれずに涙が溢れ出た。
ぽろ……ぽろ、と。
一度溢れた涙は止まらない。大粒の雫が次から次へと頬を伝い、刀の姿を、懐かしい祭りの景色を、歪み滲ませていく。
「えっ、ちょ、なんで泣くんだよ!? ごめん! ごめんってば!!」
さっきまでの勢いはどこへやら、刀は完全にパニックに陥っている。その様子を見て、周囲の幻影の大人たちが一斉に刀を責め立て始めた。
「女の子泣かせてどうすんだ!」「早く謝れ!」「最低だぞ、ガキ大将!」
「ごめん!! ほんとにごめんってば!!」と、今にも泣きそうな顔で平謝りする刀。
雪は、滲む視界の中で必死に首を振った。
「ちがうの……違うの、刀。……私、すごく怖い夢を……見てたの……」
そう言って刀を見つめた瞬間、彼の身体から、眩いばかりの光が溢れ出し始めた。光はみるみるうちに質量を増し、世界のすべてを白く染め上げていく。雪は思わず目を閉じた。
――光が、優しく弾ける。
次に雪が目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは懐かしい祭りではなく、薄暗い岩の天井だった。
洞窟の入り口から差し込む朝日の光が、涙の跡が残る彼女の頬を優しく照らしている。
(……夢。あれは、全部……夢だったんだ……)
胸にはまだ、抉られたような痛みが残っている。
ふと気配を感じて視線を動かすと、目の前にアリスが座っていた。小さな身体を丸め、心配そうに雪の顔を覗き込んでいる。
「お姉ちゃん……大丈夫……?」
雪は、安心させるために口を開こうとした。「だいじょ、ぶ」と。
けれど、その言葉を言い終わる前に、胸の奥で堰き止められていた感情の堤防が、完全に決壊した。
雪はアリスの小さな身体にしがみつき、まるで幼い子どものように、声を上げて泣き出した。
「う……うあああああああああああ……っ!」
アリスは一瞬驚いて目を丸くしたが、すぐにすべてを察したように、その小さな、けれど温かい手のひらで、雪の背中を優しく何度も撫でてくれた。
「大丈夫……大丈夫だよ、お姉ちゃん……」
静まり返った洞窟の奥で、雪の痛切な泣き声だけが、しばらくの間響き渡っていた。
どれほどの時間が経っただろう。
胸の奥に澱のように溜まっていた苦しみが、涙と一緒にすべて流れ落ちていくようだった。
ようやく呼吸が落ち着いた雪は、ボロボロになった袖で目元を強く拭い、小さく微笑んでみせた。
「……もう、大丈夫。ありがとう、アリス」
「よかったぁ……!」
アリスは心底ほっとしたように胸を撫でおろし、ぱぁっと花が咲くような満面の笑顔を見せた。
「じゃあね、お姉ちゃん。朝ごはん!」
そう言ってアリスが差し出したのは、小さな手のひらに乗せられた、半分にちぎられたパンと、半分に割られたゆで卵だった。
雪はそれを受け取りながら、ふと眉を寄せる。
「……アリスの分は?」
「もう食べたから大丈夫!」
アリスはにこっと笑って、何でもないことのように言ってのけた。
だが、その言い方があまりにも自然で、あまりにも優しさに満ちていたからこそ、雪の胸はきゅっと締め付けられた。
(……この子、本当は食べてなんていない。自分の分を、私に分けてくれたんだ)
「じゃあね! 家のお手伝いしなきゃいけないの!」
アリスは勢いよく立ち上がると、洞窟の入り口に向かって小さく手を振り、そのまま光の差し込む森の中へと駆けていった。
その小さな背中が木々の向こうに見えなくなるまで、雪はじっと見つめ続けた。
洞窟に、再び静けさが戻る。
雪は手の中にある、不揃いに分けられたパンと卵を見つめた。胸の奥に、言葉にできない温かさと、切ない痛みが混ざり合う。
(……ありがとう、アリス)
その無垢な優しさは、間違いなく雪の凍てついた心を救ってくれた。けれど同時に、雪はゆっくりと瞳を伏せる。
(でも……私はここにいてはいけない)
アリスの優しさに触れたからこそ、雪ははっきりと理解してしまったのだ。自分は追われる身であり、世界を揺るがす因縁の渦中にいる。
(私がここにいたら……いつか、アリスまで巻き込んでしまう)
胸の奥に、静かで、冷たい決意が広がっていく。
雪はゆっくりと立ち上がり、洞窟の外に広がる眩しい光を見つめた。朝日が森の木々を青々と照らし、新しい一日が始まろうとしている。
「……行かなきゃ」
まだ見ぬ運命の先へ、この場所から出ていかなければならない。
朝日に照らされた雪の瞳には、確固たる決意と、そして、ほんの少しの寂しさが宿っていた。




