第三話
「はぁ……っ、はぁ、はぁ……っ」
少女の荒い息が、夜の森の冷気の中で白く弾けて消えた。
肺が焼けるように熱い。泥にまみれた足はもう限界をとうに超え、悲鳴を上げている。
行く手を阻む枝をがむしゃらにかき分け、彼女は転がるようにして大樹の陰へと身を滑り込ませた。
背中を硬い幹に押しつけた瞬間、どくん、と心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜる。
「待て――! あっちだ、逃がすな!」
静寂を切り裂く怒号が森を震わせた。複数の足音が落ち葉を踏みしめ、すぐ近くまで迫ってくる。
少女はぎゅっと目を閉じ、祈るように身体を小さく丸めた。
喉がひゅっと鳴り、肩が小刻みに震える。
(お願い……気づかないで……通り過ぎて……)
木々の隙間を揺らす松明の影が、すぐそこまで迫っていた。息を殺し、ただ嵐が去るのを待つ。
やがて、荒々しい足音は追跡の怒号とともに遠ざかっていった。
再び、森に重苦しい静寂が戻る。
少女は張り詰めていた息をゆっくりと吐き出し、震える手で自らの胸を押さえた。冷たい汗が首筋を伝って滴り落ちる。
「……私、何をしたっていうの……」
呟きはあまりにも弱く、深い夜に吸い込まれて消えた。
半ば諦めたような虚ろな瞳で、彼女は空を見上げる。雲に覆われた天は どこまでも暗く、星ひとつ見えない。
(どうして……どうして私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけないの?)
ふと、脳裏に一瞬だけ、誰かの不敵な笑顔が浮かんだ。あの祭りの日、自信満々に名乗りもせず求婚してきた、馬鹿みたいに真っ直ぐな声。
(……あなたも、今頃どこかで、一人なのかな)
その温かいはずの記憶さえ、今は胸を締めつける痛みにしかならなかった
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。彼女はそのまま木にもたれ、重い瞼を閉じた。意識が、底のない暗闇へと静かに沈んでいく――。
ザッ……ザッ……。
微かな、けれど確かな足音に、少女は跳ね起きるように目を開いた。
野生の獣のように身を縮め、いつでも駆け出せるよう泥を蹴る。しかし、月明かりの隙間から姿を現したのは、追っ手の兵士ではなかった。
小さな女の子だった。
七つか八つほどの、あどけない少女。
その子は大きな瞳を丸くして、怯えと好奇心の混ざった視線でこちらを見つめ、恐る恐る小さな口を開いた。
「……お姉ちゃん、悪い人なの?」
少女は言葉を失った。
純粋ゆえに鋭いその問いに、どう答えればいいのか分からない。世界の理不尽に追われ続けた彼女は、しばらく沈黙したあと、自嘲気味に悲しげな微笑を浮かべた。
「……あなたたちの大人にとっては、悪い人……なのかもね」
その瞬間。
ぐぅぅぅぅ……。
静まり返った森に、少女のお腹の音が盛大に響き渡った。
「っ……!」
あまりのタイミングに、彼女の顔が一瞬で耳の裏まで真っ赤に染まる。きゅっと身をすくめてうつむく少女を見て、女の子は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間にはぱぁっと表情を明るくした。
そして、泥に汚れた少女の手を、躊躇いもなくぎゅっと握りしめた。
「こっち!」
「え、ちょ、ちょっと……待って……っ!」
女の子は小さな身体に似合わない力強さで、少女を引っ張り、森の奥へと走り出した。
うっそうと生い茂る木々の影を抜けると、そこには岩の裂け目に隠れるようにして、小さな洞窟が口を開いていた。
「ここ、私の隠れ家なの!」
女の子は誇らしげに胸を張る。少女は驚きに目を丸くした。
「……すごい。こんな場所、よく見つけたね」
女の子はポケットをごそごそと探ると、丁寧に包まれた小さな塊を取り出し、少女の手のひらに載せた。
「はい! お菓子! お腹空いてるんでしょ?」
受け取った瞬間、包みから伝わる微かな温もりが、少女の胸の奥へとじんわりと染み渡っていく。
「……ありがとう」
どれほどの間、人からの優しさに触れていなかっただろう。
一度溢れ出した感情は止められなかった。少女の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「……ありがとう……ありがとう……っ」
それは、追われ、拒絶され続けた日々の痛みを溶かすように、静かに彼女の頬を伝っていった。
少女は袖で何度も涙を拭い、まだ震える声で、ようやく自分の名前を口にした。
「……私の名前は――雪」
その名を聞いた瞬間、女の子の顔がひときわ大きく輝いた。
「ゆき……! わぁ、真っ白で、お姫様みたいなお姉ちゃんにぴったりの名前だね!」
無邪気で、一切の計算がない賞賛。
その言葉は、雪の凍てついた胸の奥に、ぽっと小さな灯火をともした。誰かに「似合う」と、肯定的な言葉をかけられたのは、一体いつ以来だろう。雪は照れくさそうに、けれど愛おしそうに目を伏せた。
「私はアリスだよ!」
胸を張って名乗ったその少女の姿は、この暗い世界の中で、唯一の希望の光のように見えた。
アリスは洞窟の入り口へ向かいながら、少し名残惜しそうに振り返る。
「そろそろ帰らないと、お母さんに怒られちゃうから……。また来るね、雪お姉ちゃん!」
そう言い残し、小さな影は妖精のように森の闇へと消えていった。
アリスが去ったあとの洞窟の中は、しんとしていて真っ暗だった。
けれど、その暗さが、今の雪には不思議と心地よかった。
(……静かだ。本当に……)
追われる恐怖も、胸を締めつける孤独も、今だけは遠い世界の出来事のように思える。
雪はひんやりとした岩肌に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
胸の中の小さな温もりを抱きしめながら、彼女の元に、本当に久しぶりの、深く穏やかな眠りが訪れた。




