第四十一話
雪を強く抱きしめた刀は、ようやく取り戻した愛しい温もりを、その胸に噛み締めていた。
だが、その安堵の温もりは、一瞬にして凍りつく。
「……スノー……?」
刀が戦慄して振り返った先――そこでは、異形と化した炎が、スノーの首を無慈悲に片手で掴み、まるで壊れた人形のように宙へ吊り上げていた。スノーの足が虚しく空間を泳ぎ、圧迫された喉がかすかに震える。
刀は肺を破らんばかりに叫んだ。「やめろ、炎ッ!!!!」
しかし、炎の澱んだ瞳は刀たちを一瞥し、酷く冷淡に呟いた。
「憎しみの力も集められんとは⋯⋯所詮、“まがい物の器”か。」
その言葉とともに、炎の腕が冷酷に動いた。スノーの胸元へ鋭い漆黒の光が走り、彼女の身体はパリンッと激しい硬質な音を立てて弾け飛び、ホールの壁へと容赦なく叩きつけられた。
「スノーーーーーッ!!!!」
刀の心臓が裂けるように痛む。胸元の雪も息を呑み、恐怖に震える手で刀の服を強く掴んだ。
刀は怒りに身を任せ、大剣を引き抜いて炎へ飛びかかった。「お前ぇぇぇぇ、よくもーーーっ!!」
だが、黒き力を引き出した炎の実力は圧倒的だった。刀の渾身の斬撃はあっさりと受け止められ、逆に倍以上の強烈な衝撃波で吹き飛ばされる。刀の身体は背後の雪の方へ弾かれ、二人まとめて堅牢な壁に叩きつけられた。
雪が刀の上に重なるように倒れ込み、二人とも激痛で動けない。そのあまりの衝撃に、刀の手から離れた大剣だけが、床を虚しく滑り――壁際で倒れ伏すスノーの足元へ、静かに転がっていった。
スノーは壁際で倒れたまま、意識の混濁に耐えている。そのすぐそばに、刀の大剣が横たわっている。
刀は歯を食いしばり、床に血を吐きながら、声にならない声を心の中で漏らした。
(スノーを……守らなきゃ…………。)
雪は震える声で、涙ながらに刀を呼んだ。
「……刀……っ、スノーが……このままだと、死んじゃうよぅ……っ」
刀は雪の手を握り返すことしかできない。立ち上がるための力が、もう残されていなかった。
その時――。
狂気の炎が、ゆっくりと宙へ手をかざした。
黒き城全体、いや、この世界中から吸い寄せられるようにしておびただしい量の黒い靄が集まり、炎の身体へまとわりついていく。
「……やめろ……炎……! 何をする気だ……っ」
刀の声は絶望に震えていた。雪も刀の手を強く握りしめ、恐怖に大きく目を見開く。
集まった黒い靄は炎の身体を完全に包み込み、その男の輪郭すら飲み込んで巨大化していく。
そして――。
ホールを埋め尽くしていた漆黒の靄が、フッ……と晴れた。
そこに立っていたのは、もう、炎の姿ではなかった。
頭上を戴くは黒い王冠のような禍々しい角。闇そのものを編み上げて纏ったかのような漆黒の衣。
ただそこに存在するだけで、周囲の空間そのものを歪ませ、引き裂くような絶対的な神威。
刀も雪も、その圧倒的な存在に本能的な理解を得て、息を呑んだ。
「……創、造、神……?」
その名を呟いた瞬間、大気が爆発的に震え、黒き城全体が悲鳴を上げるように軋み始めた。
スノーのそばには、ただ一振りの大剣だけが、主を待つように静かに横たわっていた。
壁際で倒れていたスノーは、かすむ視界の中で左手の指輪を見つめた。王女から授かった最高国宝の宝珠は、身代わりになるようにして粉々に割れていた。
(……王女様、私を……守ってくれたんだね。ありがとう……)
心の中でそっと呟き、視線をスノーは自分のすぐそばに転がってきた刀の大剣へと向けた。
刀も雪も動けない。絶望の化身たる創造神は、ゆっくりとこちらへ歩み始めている。
(……刀も……雪も……今度は私が、守らなきゃ……っ!)
震える指先を必死に伸ばし、スノーはその大剣の柄へと触れた。
その瞬間――。
スノーの胸の奥に、懐かしい声が響き渡った。
『……よぅ。ずいぶん久しぶりだな、スノー』
スノーの黄金の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
その声は、何度も聞いて、何度も失って、もう二度と聞けないと絶望していた――本物のあいつの声。
「……炎……? 炎なの……?」
涙で滲む視界の中、スノーは震える声で呟いた。
炎の声は、いつもの調子で呆れたように笑った。
『おいおい……あんな化け物と、この男前な俺を間違えるなんてな。見ない間にずいぶん老け込んだんじゃねぇの? スノーさんよぉ』
「なっ……、何ですってぇぇぇぇぇっっっ!!!」
スノーは涙を浮かべたまま、頬をぷくっと膨らませて怒ってみせた。
そのあまりにもいつも通りの懐かしい仕草に、炎はさらに嬉しそうに声を上げて笑う。
『まあ、積もる話はあとだ。お前を泣かせたあの化け物を……まずは徹底的にぶっ倒してからにしようぜ、スノー』
スノーは手の甲で乱暴に涙を拭うと、強く、強く頷いた。
「……ええ! 言いたいことは山ほど、山ほどあるけれど……今はわかったわよ!」
炎の声が優しく、そしてこの上なく頼もしくスノーの魂を鼓舞する。
『よし。いくぜスノー。――俺たち“熟年夫婦”の力、あの神様気取りに見せつけてやろうじゃねぇか!』
「ええ……! 当然よ!」
スノーは刀の大剣を力強く握りしめ、ガバッと立ち上がって構えた。
その姿は、もうさっきまで瀕死で倒れていた人間とは思えないほど、凛として気高く、白銀と黄金の光に満ちあふれていた。
その頃、壁際で倒れる刀の前では、雪が最後の力を振り絞り、震える手を刀へと伸ばしていた。
「……刀……これ……私の力、全部……使って……っ」
雪の掌に、白き器の純潔な光が集まり、それはやがて、透き通るように美しい一振りの『白い大刀』へと姿を変え、刀の手元へと収まった。
雪はそのまま限界を迎え、意識を失って刀の胸へとバタリと倒れ込む。
刀は雪の身体を左腕で優しくしっかりと抱きとめ、右手に残されたその白い大刀を限界まで握りしめた。
「雪……お前の力、確かに借りるぜ!」
刀の瞳に、絶望を焼き尽くす烈火の光が完全に戻る。
スノーの内に宿る炎が、刀の復活を見て不敵に笑い、スノーへと告げた。
『スノー、ちょっとだけ体を借りるぞ』
「ええ、一緒に戦いましょう!」
スノーの瞳が一瞬だけ、炎の持つあの獣のように鋭い赤黒い輝きを宿す。炎の意識が表層に現れ、刀へと力強く呼びかけた。
『行くぞ、あの神もどきの化け物をぶっ殺すぞ!』
刀は白い大刀を正眼に構え直し、闘志を滾らせていた。
スノーも大剣を上段へと構え直し、その黄金の瞳で創造神を真っ直ぐに睨みつける。
二人の足元から、世界を浄化するような純白と黄金の光の奔流が一直線に走り抜けた。
失われたはずの夫婦の絆。そして、それを繋ぎ止めた後輩。
三人の魂の絆が今、世界を飲み込もうとする絶望の闇を、跡形もなく切り裂くために駆け出した。




