第四十話
漆黒に染まった刀と異形と化した炎の刃が再び激突し、世界を呪うような黒い衝撃波が漆黒のホール全体へ狂おしく響き渡った。
刀の器は底なしの闇に染まり、その瞳には理性を焼き切った純粋な憎悪だけが宿っている。
破滅へのカウントダウンが始まった、まさにその時――。
「やめて、二人ともッ!!!!」
鼓膜を、そして魂を震わせるような鋭い叫びが、凍りついた空気を真っ二つに切り裂いた。
次の瞬間、激突する刀と炎のわずかな隙間に、天をも突くほど巨大で強固な『氷の絶壁』が文字通り割り込むようにして立ち上がった。二人の放った黒い衝撃波は、その絶対的な白銀の防壁に真っ向から遮られ、激しい音を立てて霧散していく。
周囲一帯に極限の冷気が爆発的に広がり、刀の身体を包んでいた禍々しい黒いオーラが、嘘のように綺麗に浄化されて消えていった。
刀はその懐かしい声に弾かれたように反応し、我に返って振り返る。
「……ス、スノー……?」
そこには、白銀の魔装の鎧を身に纏ったスノーが立っていた。
激しい乱戦を潜り抜けてきたためか肩で大きく息を切らしながらも、その黄金の瞳は真っ直ぐに刀だけを見つめている。
正気を取り戻した瞬間、刀の身体から完全に力が抜け、その場にどうと膝が崩れ落ちた。
「……ごめん……俺、理性を失って、あいつの言葉に……」
震える声で床を見つめながら謝る刀。だが、スノーは刀へ駆け寄ることはしなかった。彼女の鋭い視線は、氷壁の向こう側で大剣を構えるかつての相棒へと向けられていた。
「……ずいぶんと、無様な姿に変わっちゃったのね、炎」
氷の壁を回り込んできた炎は、裂けたように口角を吊り上げ、下卑た邪悪な笑みを浮かべる。
「変わった? ハッ、相変わらず口の減らねえアマだ。強くなった、と言い直せよ、スノー!!」
ドロドロとした黒い靄が炎の身体から爆発的に噴き上がり、彼は躊躇なく大剣を斜めに振り抜いた。
空間そのものを断ち切るような漆黒の衝撃波が走り、無防備にへたり込む刀へと牙を剥く。
「刀!!」
スノーは身を挺して刀の前へと滑り込み、彼を庇いながら指輪の力を解放して、ギリギリのところでその衝撃を外側へと受け流した。
激しい衝撃で周囲の氷の膜が粉々に砕け散り、キラキラとした美しい冷気が空間に舞い踊る。
スノーは刀の肩にそっと手を置き、前を見据えたまま、静かに、けれど毅然と言い放った。
「刀……あの子の、雪のところへ行きなさい」
刀は驚愕に目を見開く。「でも……スノー、お前一人で、あんな化け物になった炎と……っ」
スノーは一瞬だけ振り返り、微笑んだ。
その笑みは、溢れそうになる涙を必死に隠すように、どこまでも優しく、温かかった。
「雪に、ずっと言うことがあるって言ってたじゃない。……ちゃんと、返事をもらってきなさい」
刀は言葉を失い、息を呑む。スノーはからかうように、さらに言葉を重ねた。
「それとも何? 久しぶりに再会した私たち夫婦の邪魔をするつもりなの……」
スノーの覚悟に、刀の胸の奥が熱く、激しく震えた。
「……すぐ、戻る。絶対に、持ちこたえろよ!」
刀は力を振り絞って立ち上がると、雪の待つ高台の玉座へ向かって、脇目も振らずに一気に駆け出した。
スノーは去りゆく背中を見送った後、大剣を構える炎へと正面から向き直る。
「待たせたわね、炎。……いいえ、炎の形をした、ただの化け物」
炎は黒い大剣を肩に担ぎ、にたりと狂気的な笑みを浮かべた。「あいつへの言い残しはもうないのか? 寂しいお別れになるぜ?」
スノーは左手の国宝の指輪に全ての魔力を集中させ、指先から極冷の魔弾を生成して美しく構えを取った。
「ええ、ないわ。――さあ、やりましょう。あなたの中の闇を、全部凍らせてあげる!」
無数の氷の弾丸が空間を埋め尽くすように放たれ、二人の因縁の戦いが、再び激しく幕を開けた。
「雪、今行く! 待ってろ!!」
刀は声を張り上げ、天へと伸びる長い階段を一歩ずつ、力強く駆け上がっていった。
その必死の叫びに反応したかのように、玉座にいた雪がわずかに、ピクリと顔を持ち上げた。感情の消え失せた無表情のまま、ただ機械的に、階段を上ってくる刀をその濁った瞳で“視る”。
次の瞬間――。
雪の周囲からどす黒い魔力の奔流が渦を巻いて噴き上がり、彼女の頭上に無数の禍々しい『黒い矢』が生成された。
「っ……、しまっ……!?」
刀は本能的な危機感で反射的に身を引き、階段を転がるようにして滑り降りた。直後、彼がいた場所へと音を立てて激しい矢の雨が降り注ぐ。
矢の猛攻は止まらず、爆風と破片が舞い散り、階段への接近すら一切許さない。
「雪! 目を覚ませ!! 俺だ、刀だ!!」
いくら声を枯らして叫んでも、雪の漆黒の瞳が揺れることはない。
黒い闇に精神の底まで沈み込んだまま、彼女はただ、侵入者を排除する機械のように冷酷に矢を放ち続ける。
ついに刀の満身創痍の動きが、その圧倒的な手数の雨に追いつかなくなった。
風を裂いて飛来した一本の黒い矢が、刀の左肩へと深く突き刺さる。
「ぐっ……、ああああっ!!」
刀は激痛に耐えかねてその場に膝をつき、肩を押さえて荒い息を吐いた。
(ここまで来て……届かないのか……っ!)
絶望が脳裏をよぎった、その瞬間。
あれほど容赦なく降り注いでいた矢の雨が、フッ……と不自然に鳴りを潜めた。
刀が苦しげに顔を上げると――信じられない光景が目に飛び込んできた。
先ほどまで雪の膝の上に静かに鎮座していた、あの古びた黒いクマのぬいぐるみが、よろよろと奇妙に立ち上がり、一歩一歩階段を降り始めていたのだ。
「……なんだ、あれ……? 一体何が起きてるんだ……」
刀は呆然と、その異様な光景をただ見つめることしかできなかった。
ぬいぐるみは短い綿の足で“てくてく”と不器用な足音を立てながら、膝をつく刀のすぐ目の前まで歩いてくる。
刀は大剣を構え、警戒を強めた。「来るのか……? お前も敵か……っ」
だが、ぬいぐるみは刀のことなど一瞥もせず、ゆっくりと、愛しい我が主であるはずの雪の方へと向き直った。そして、その小さな、短い両腕をいっぱいに広げたのだ。
その時、ぬいぐるみの内側から、確かに一人の少女の声がホールに響き渡った。
『……お姉ちゃん、もう、やめて……』
それは、アリスの声だった。
その声が届いた瞬間、玉座の雪の身体がびくりと、割れたガラスのように激しく震えた。
「や……、め……て……っ……、あ、あああああっ……!」
雪は突然激しく頭を抱え、内側から溢れ出す拒絶と記憶の濁流に、苦しむようにその場にうずくまった。
狂ったように精神が混濁する中、雪の灰色の手が、助けを求めるように前へと力なく伸びる。
しかし、暴走した黒い器の力が拒絶反応を起こし、彼女の意思とは無関係に空間に新たな黒い矢が生成され――無情にも、目の前にいたぬいぐるみの胸を、真っ直ぐに貫いた。
『……お姉ちゃん……。……戻って、きて……』
最期にそう、切なげな微笑みを遺すような声を残し、黒いクマのぬいぐるみは、温かな光の粒となって、静かに宙へと消え去っていった。
その光景を目撃した瞬間、雪の漆黒の瞳が大きく、激しく揺れ動いた。
「――ああああああああああああああああーーーーっっっっ!!!!」
声にならない悲痛な叫びが、彼女の喉の奥から、血を吐くようにして絞り出される。呪縛に亀裂が入った、ほんの僅かな、劇的な一瞬。
その一瞬を、刀は絶対に見逃さなかった。
「雪ィィィィィッッッッ!!!!」
刀は突き刺さった矢を力任せに引き抜き、地面を爆発的に蹴って階段を駆け上がった。玉座へ到達すると同時に大剣を上段へと構え、雪の額に生え出ていた、呪いの元凶である二本の黒い角を一文字に一気に斬り裂いた。
――パキィィィィンッッ!!!
ガラスが派手に割れるような轟音とともに黒い煙が爆ぜ、ホールを覆っていた深い闇が嘘のように霧散していく。
角を失った雪の身体から禍々しいオーラが消え去り、ふらりと力なく、前方に倒れ込むようにして元の綺麗な少女の姿へと戻っていっていく。
「……か、たな……なの……? 私……一体……」
震える、いつもの、鈴を転がすような愛しい声。
刀は激しく息を切らし、大剣を床に放り出すと、彼女の身体を優しく受け止めて答えた。
「ああ……、そうだ。遅くなって悪かったな、雪。……俺だ。お前を助けに来たぞ」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、雪の瞳から大粒の涙が溢れ出し、彼女は刀の胸へと全力で飛びついた。
「刀ぁぁぁぁぁっ……! 怖かった……っ、すごく、怖かったよぉ……っ!」
刀は、二度と離さないと言わんばかりに、雪の華奢な身体をその両腕で強く、強く抱きしめた。
腕の中に感じるその確かな温もりと、背中に回される小さな手の感触は、紛れもなく、彼がずっと追い求め、焦がれ続けた、本物の『雪』のものだった。




