第三十九話
刀は、黒き城の果てしなく続く不気味な廊下を、ただ一心不乱に駆け抜けていた。
壁に揺らめく青白い魔導の炎が、彼の疾走に合わせて激しく明滅し、壁面に伸びる影を化け物のように不気味に歪ませる。
肩を激しく上下させ、息を切らしながら廊下の最奥にある重厚な大扉を両手で力任せに押し開けると、そこには言葉を失うほど広大な謁見の間――漆黒のホールが目の前に広がった。
天井は底知れぬ闇へと溶け込み、ホールの最奥には天を突くような高台が聳え立っている。
そこへ続く階段は、まるで天へ伸びる蜘蛛の糸のように長く、冷たく、そして不気味なほどに静まり返っていた。
そして――。
その最上段に設えられた禍々しい玉座に、ひとりの少女が虚ろに座っていた。
髪は、光すら吸い込む深い闇のような漆黒。
肌は血の気を失って灰色に沈み、その額からは、禍々しい二本の黒い角が天を突くように生え出ている。
少女は膝に抱えた薄汚れた黒いクマのぬいぐるみを、感情の消え失せた無表情のまま、何度も、何度も機械的に撫でていた。
刀の心臓が、恐怖で一瞬完全に停止しかねた。
「……雪……? 雪、なのか……っ!?」
絞り出した声は激しく震え、喉が焼けるように痛むほどだった。
だが、その愛しい少女――かつての『白き器』は、刀の裂けんばかりの叫びに一切の反応を示さない。
ただ、虚空のどこか一点を見つめたまま、まるで魂がその肉体から完全に抜け落ちてしまったかのように、微動だに しなかった。
「雪! 雪、俺だ! 刀だ! 今助けに――」
刀が狂ったように階段へ向かって駆け出した、まさにその瞬間。
――キィィィィィンッッ!!!
階段の死角から、爆発的な速度で飛び出してきた『漆黒の影』が、容赦のない殺意を乗せて刀の首元へと斬りかかってきた。
激しい金属同士のぶつかり合う轟音がホールに響き渡り、刀は本能的な反射だけで大剣を突き出し、その一撃を辛うじて受け止める。
「っ……、誰だ……っ!?」
強引に相手の刃を押し返しながら、間近に迫ったその顔を視界に捉えた瞬間、刀の全身の血の気が一気に引き、凍りついた。
そこにいたのは――他ならぬ、あの『炎』だった。
だが、違う。あの精神世界の暗黒で、不器用ながらも自分を導き、最後には優しい笑顔を見せてくれたあの炎とは、肉体も魂もまるで別物だった。
瞳は濁った赤黒さに澱み、その口元には見たこともない邪悪な笑みが刻まれている。
肉体の至る所からドロドロとした黒い靄が絶え間なく溢れ出し、まるで邪悪な怨霊にでも取り憑かれたかのように歪みきっていた。
「……炎……? なんで、お前が、ここに……っ」
刀の困惑に満ちた問いかけに対し、炎はただククク、と低く嗤った。
その笑い声には、あの照れ屋で、根はどこまでも優しかった相棒の面影など、微塵も残されていなかった。
刀は炎の放つ圧倒的な力任せの刃を受け止め、押し潰されそうになりながら必死に叫んだ。
「目を覚ませ! 俺だ! 俺のことがわからないのか、炎ッ!!」
だが、返ってきたのは、かつての炎の声を残酷に歪ませた、地獄の底から響くような悍ましい声だった。
「黒き器の力よ……。もっと滾れ、もっと俺を楽しませろよ、刀ァ!!」
――ドガァァァン!!!
炎の身体から、爆発的な黒いオーラが噴き上がった。その変貌に呼応するように、彼の額からもまた、雪と同じ二本の不気味な黒い角が突き出す。
そのまま一切の手加減なしに大剣を振り下ろされ、その凄まじい衝撃で刀の身体はホールの床を何メートルも激しく滑り、壁へと叩きつけられた。
「あはははっ! 面白い、面白いぞ! もっと俺を楽しませてみせろ!!」
狂気の高笑いが、広大なホールに虚しく響き渡る。
刀は内臓を揺さぶる衝撃に歯を食いしばり、痛む胸に手を当てて全魔力を練り上げた。
――器の力が激しく反応し、刀の身体が神聖な『純白の輝き』に包まれていく。
「ふざけるな……! スノーも、ルナを助けて今こっちに向かってるんだ! お前だって、スノーを守りたかったんじゃねえのかよ!?」
スノーの名を出せば、少しは正気を取り戻すかもしれない――。
だが、その淡い期待を裏切るように、炎の邪悪な笑みはさらに深く、醜く歪んだ。
「スノーだと? ひゃははは、面白ぇ……! ちょうどいい、あいつが来たら、お前の目の前で一緒に細切れにして殺してやるよ!!」
「お前っ……!!!!」
刀は、最愛の仲間を侮辱された怒りを完全に抑えきれず、白き光を大剣に纏わせて炎へと猛然と斬りかかった。
だが、黒き器の力を完全に引き出し、悪意に染まった炎の一撃はあまりにも重く、強かった。刀の渾身の縦一文字は容易く押し返され、刃の根元から強烈な衝撃が腕を伝う。
「ぐっ……、あぁっ……!?」
力の差は歴然だった。刀の身体は再び無様に吹き飛ばされ、冷たい床を転がった。
炎は大剣を肩に担ぎ、獲物をいたぶる蛇のような足取りでゆっくりと歩み寄り、愉悦に満ちた声を耳元で囁く。
「もっと憎めよ、刀。それでいい……。その憎しみと絶望こそが、器の力を最大に引き出す最高の餌になるんだからなぁ……」
炎は、玉座の上で人形のように座り続ける少女――雪を、嘲笑うように指差した。
「ほら見ろよ……。あの、かつて『白き器』と呼ばれた小娘のようにな」
にたり、と下卑た笑みを浮かべる炎。その言葉の意味を理解した瞬間、刀の胸の奥が、冷水を浴びせられたように一瞬で凍りついた。
「……まさか……お前が……雪を……そんな姿に……?」
炎は一切の躊躇なく、嬉々として深く頷いてみせた。
「そうだよ。その通りさ。俺がこの手で、あの女の心を粉々に壊してやったんだ。傑作だろ?」
――ドクン……!!!
その瞬間、刀の器の奥底、魂の最奥から、ドロドロとした『どす黒い何か』が爆発的に噴き上がった。
彼を包んでいた神聖な白い光は、瞬く間に濁った漆黒へと染まり、禍々しい黒いオーラが刀の全身を包み込んでいく。大切な雪を、そして信頼していたはずの相棒を冒涜された怒りが、彼の理性を完全に焼き切ったのだ。
炎は、刀のその「闇堕ち」の光景を見て、狂喜乱舞の声を上げた。
「そうだ!! その顔だ!! もっと憎め! もっと俺を殺したいと願え! もっとだ!!」
狂った炎が上段から大剣を振り下ろし、刀もまた、理性を失った獣のような咆哮を上げてそれを打ち返した。
「死ねよおおおおお、この野郎ッッッ!!!!」
――ズガァァァァァン!!!!
ホール全体を揺るがすほどの、漆黒の魔力と魔力の衝突。
その凄まじい爆発の衝撃を受け、流石の炎の身体も後方へと派手に吹き飛んだ。
炎は床を無様に何度も転がり、壁に激突しながらも、狂ったような大笑いを止めようとはしなかった。
「あはははは! 面白ぇ、面白ぇなぁ刀ァ! もっと憎め! そのまま俺を呪い殺してみせろ!!」
炎の挑発に呼応するように、刀の器はさらに深く、底のない黒へと染まっていく。
咆哮を上げる刀の瞳は、もはやかつての心優しい“刀”のものではなく、憎悪に支配された『復讐の魔王』のそれへと変貌しつつあった。




