第三十七話
ルミナはスノーが間合いを詰める前に、ふっと不敵な微笑を浮かべた。
「……あの時と一緒だね、――スノー」
その静かな声音と同時に、周囲の大気が重く、耳障りな音を立てて軋み始める。
かつて深淵の森で味わったあの絶望的な圧力がスノーの身体に容赦なくのしかかり、足元の強固な石床が微かに震えた。だが、今のスノーは一歩も引かない。
むしろ、その暴虐的なプレッシャーを正面から受け止めるように、力強く前へ足を踏み込んだ。
ルミナが予想外の抵抗に驚いたように目を向けた、まさにその瞬間。
スノーは躊躇なく地面を蹴り、迷いなくその腕を振り抜いた。
――パァンッ!!!
空気を切り裂く乾いた衝撃音が響き渡り、ルミナの身体が後方へと大きく弾かれる。
灰色の乾いた地面に倒れ込んだルミナを、スノーは視線を逸らさず、静かに見下ろした。
「立ちなさい。……私たちの決着は、これからよ」
その声はもう震えていない。王女との死闘を経て、すべてを背負う覚悟を決めた、一人の戦士の声だった。
ルミナはそっと自身の口元に触れ、指先についた僅かな赤い跡を見つめる。
そして、糸に引かれるようにゆっくりと立ち上がり、不気味に口角を吊り上げた。
「……ふふ。あははっ! やっぱり、スノーはそうこなくっちゃね」
その昏い笑みには、かつての仲間としての懐かしさと、今の彼女を支配する狂気が悍ましく入り混じっていた。
スノーが次の一歩を踏み出した瞬間、ルミナはわざとらしく小首を傾げた。
「じゃあ……このくらいなら、耐えられるかな?」
その宣告と同時に、ルミナの背後からおびただしい量の黒煙が噴き上がる。
煙は意思を持つ生き物のようにうねり、瞬時に無数の“鞭”の形をとって漆黒の軌跡を描きながら、鋭く空気を引き裂いた。
無数の黒い刺突が一斉にスノーへと襲いかかる。スノーは身を翻し、地を跳び、滑り込むように極限の回避を続ける。
だが、手数が多すぎる。これでは距離を詰めるどころか、防御に回るのが精一杯だ。一撃でも触れれば、魂ごと削り取られかねない邪悪な気配がそこにはあった。
(……これじゃ、近づけない……!)
防戦一方で後退する両足が、灰色の地面を激しく擦る。
ルミナはその様子を眺めると、つまらなそうにその場に腰を下ろした。
「えー……また逃げるだけ? つまんなーい」
その無邪気な声音は、かつての愛らしいルナの面影を強く残しながらも、底知れない冷徹さと歪みを孕んでいた。
スノーは一瞬の隙を突いて距離を取り、激しい息を整えながら、左手にはめた銀の指輪を見つめた。
脳裏に、あの気高き王女の言葉が鮮烈に蘇る。
――『必ず生きて返しに来い。命令だ』
「……王女様、力を借ります」
スノーは覚悟を込め、指輪の宝珠へとそっと自身の魔力を流し込んだ。
「――『魔装』」
――ビリ……ビリビリ……ッ!!!
世界が震え、超高密度の白い氷の粒子がスノーの周囲に舞い上がる。
無数の氷の結晶が激しい音を立てて集まり、気高き形を成していく。
次の瞬間、まばゆい輝きを放つ白銀の鎧が、スノーの華奢な身体を包み込んだ。
冷たく、しかし凛とした確かな力が、みなぎるように全身を満たしていく。
ルミナはその圧倒的な光景を目にし、歓喜に震えながらゆっくりと立ち上がった。
その口元には、抑えきれない期待と狂気が混じった極彩色の笑みが浮かんでいる。
「……いいね。素晴らしいよ。やっと“私の大好きなスノー”って感じがしてきた!」
白銀の鎧を纏ったスノーは鋭く構えを取り、胸の奥の熱い想いを込めて、静かに息を吐いた。
「ここからが本番よ、ルミナ。――ルナをその闇から連れ戻す!」
不気味に聳え立つ黒き城の前で、世界の命運を懸けた二人の戦いが、ついに本格的に始まろうとしていた。




