第三十六話
白の国を後にした二人は、まだ朝の冷たい風が残る街道を、弾かれるように足早に進んでいた。朝日が二人の影を長く引き延ばしていく。
スノーは歩幅を合わせながら、昨日行われた王女との熾烈な修行のことを、ぽつぽつと静かに語り始めた。
「王女様、本当にすごかったよ……。あの指輪もね、ただの魔導具じゃなくて、国宝なんだって。それに、まさかスフィアさんとルナさんの昔の師匠だったなんて……」
その声には驚きと尊敬、そして、かつての平和だった日々を想う少しの寂しさが混じっていた。
「へえ、やっぱりあの王女様、タダ者じゃなかったんだな」
刀も、自身の精神世界での不思議な体験を明かす。
「驚くのはそれだけじゃないぜ。実はさ……俺も夢の中で『炎』と修行してたんだよ。あいつ、口を開けば悪口ばっかりで、めっちゃ不器用でさ」
スノーは苦笑しながら、信じられないといった様子で首をかしげる。
「夢でしょ?……でも、なんか、本物みたいだね。刀の話を聞いてると、私が知ってる炎そのまんまって感じがする」
「だろ? だから確信したんだ」
刀は晴れ渡る空を見上げて、不敵に笑った。
「雪を見つけたら、次はあの不器用な炎を探し出して、一発殴ってやるんだ」
「はいはい……」
スノーはいつものように軽く受け流すが、その横顔はどこか悲しげに翳っていた。
(炎は、私を守るために、もう死んじゃったはずなのに――)
そう思うと胸が締め付けられるように痛む。けれど、前を向いて走る刀の希望をへし折るようなことは、今のスノーには言えなかった。
「……そろそろ国境だな」
刀の短い言葉に、二人の背筋が自然と張り詰めた。
事前に王女から聞いていた通り、黒の国は危険に満ちており、すでに騎士団が進軍しているという報せもある。
だが――張り巡らされた国境の結界を越えた瞬間、二人は同時に足を止めた。
「……何、これ。誰も、いない?」
周囲には静寂だけが横たわっていた。吹き抜ける冷たい風の音だけが耳に届く。
国境を警備する兵の姿はもちろん、小鳥のさえずりも、野生の獣の気配すらも完全に消え失せていた。
刀が鋭い目で周囲を警戒し、深く眉をひそめる。
「やけに静かだな……。嵐の前の静けさってやつか」
その時だった。スノーが何かに気づき、遠くの連峰を指差した。
「刀、見て、あれ……!」
険しい山の奥――黒い瘴気に包まれた不気味な森の向こう側から、白い煙がいくつも、激しく立ち上っていた。まるで、そこで大規模な戦争が起きているかのように。
刀は迷うことなくスノーの手を強く握り、地面を蹴った。
「行くぞ、スノー!」「うん!」
二人は山道を一気に駆け上がり、煙の源――黒の国の深淵へと向かって突き進んだ。
険しい山頂へと上り詰めた二人は、眼下に広がった地獄のような光景に、思わず息を呑んだ。
そこには、黒い霧に包まれた巨大で禍々しい城が聳え立っていた。
その周囲の荒野では、おびただしい数の異形の魔物と、黒の国の意匠を纏った騎士たちが血みどろになって入り乱れ、地面は飛び散る鮮血と硝煙でどす黒く染まっていた。
「……ひどい……」
スノーの声が恐怖と嫌悪で微かに震える。戦場の狂気に満ちた叫びが風に乗って響き、鼓膜を刺した。
だが、凄惨な乱戦を見下ろす中、スノーは奇妙な違和感を覚えた。
混迷を極める戦場の中で唯一、城の正面門へとまっすぐに続く『一本の広大な道』だけが、まるで誰かが意図的に空間を空けたかのように、不自然なほど静まり返っていたのだ。魔物も騎士も、その道にだけは決して近づこうとしない。
「刀……あそこ、変よ……」
刀はその空白の道を見つめ、大剣の柄を握り直して短く息を吐いた。
「罠だろうが何だろうが、行くぞ、スノー」
スノーは慌てて刀の逞しい腕を掴む。「待って、明らかな罠かもしれないわ!」
「ここで足止めを喰らっていたら、何も進まん。雪とルナを救うんだろ」
刀は強引にスノーの手を引き、その不自然に静まり返った一本道へと、堂々と足を踏み入れた。
道の中心、城門の間近まで辿り着いたその時。
巨大な城の階段の前に、ポツンと“誰か”が退屈そうに座っているのが見えた。
二人の接近に気づき、その人影がゆっくりと立ち上がり、こちらへ顔を向ける。
「ずっと待ってたよ――スノー」
その声は確かに耳に馴染んだ懐かしいもの。しかし、その響きは悍ましく歪んでいた。
かつて美しかった髪はどす黒く染まり、肌は死人のような灰色に変色している。そして、その瞳の奥には、ルナのものではない邪悪で冷酷な光がギラギラと宿っていた。
それは――ルナであった肉体。
魔将ルミナに魂を乗っ取られ、黒姫のしもべへと堕とされた最悪の存在。
スノーは毅然とした足取りで刀の前に立ち、胸の奥の国宝の指輪に魔力を込めて深く息を吸った。
「刀……ここは私に任せて、先に行って」
「だが、お前、あいつは――」
「私が、私自身の手で倒して、ルナを取り戻さなきゃいけないの。それに……あんたには、雪が待ってるでしょ?」
覚悟と、烈火のごとき闘志を宿したスノーの黄金の瞳に、刀は言葉を失った。
数秒の重苦しい沈黙が流れた後――刀は小さく笑い、スノーの肩をポンと叩いた。
「……死ぬなよ、スノー。あいつをぶん殴ったら、すぐに合流しろ」
「ええ、すぐ追いかけるから」
刀は大剣を構え直すと、爆発的な速度で走り出し、ルミナのすぐ真横を通り過ぎて城内へと突入していく。
ルミナはそれを阻止するどころか、楽しそうに体を横に避け、去り行く刀の背中に向けて手をひらひらと振った。
「バイバーイ、刀。黒姫様によろしくねぇ」
その声は、ゾッとするほど妙に楽しげだった。
残されたスノーは、冷徹な視線でルナの姿をした化け物を見つめた。
「……ずいぶんと素直に刀を行かせるのね。何を企んでいるの?」
ルミナは裂けたように口角を吊り上げ、にたりと不気味に笑う。
「企む? まさか。だって、今の私の用事は、刀じゃなくてスノー、あなたの身体だけなんだもの。お前をここで美味しく弄んで、もうすぐ私も“黒姫様”と同じになるの……ふふ、ふふふふ!」
狂気の独り言を呟きながら、クスクスと不快な笑いを浮かべるルミナ。
その邪悪なプレッシャーに対し、スノーは王女から授かった銀の指輪を強く握り締め、一歩前へ踏み込んで完璧な戦闘態勢を取った。
「……能書きは終わりよ。さあ、やりましょう、ルミナ。――その身体、返してもらうわ!」
黒き城の堅牢な門前で世界を揺るがす死闘の火蓋が切って落とされた。




