第三十五話
暗黒の世界に響き渡っていた荒々しい金属音は、いつしか互いの魂を 紡ぐ、心地よい協奏曲へと変わっていた。
刀と炎は、幾度も、幾度も刃を交え、その度に驚くほど自然に互いの呼吸を合わせていく。
剣が激しくぶつかる。
火花を散らして離れる。
そして、吸い寄せられるように再び交差する。
その研ぎ澄まされた一連の動きは、もはや互いの命を奪い合うための戦いではなかった。
言葉の代わりに、剥き出しの剣で語り合う――己のすべてを曝け出すような、不思議で、どこか愛おしい時間。
「……楽しいな、刀」
大剣を構えたまま、炎が子供のように無邪気に笑った。
その獣めいた表情には、最初に見せたあの冷徹な拒絶も、世界を呪うような敵意も、もう微塵も残っていない。
「ああ……悪くないな」
刀もまた、大剣を握る手に心地よい充実感を覚えながら、自然と笑みを返す。
不思議だった。自分の肉体を奪おうとする敵であるはずなのに、こうして剣を交えている時間が、どうしようもなく愛おしかった。
むしろ――魂の底から、心地よかった。
だが、幸福な時間は突如として終わりを告げる。
炎がふいに、全ての動きをピタリと止めたのだ。
そして持っていた大剣を下げ、両腕を大きく広げて、無防備にその胸を晒した。刀の全力の踏み込みの最中に。
「……え!?」
止められない。刀の刃が、炎の灰色の身体を斜めに深く切り裂き、そこから無数のまばゆい黄金の光の粒が舞い散った。
刀は驚愕に目を見開く。
「なんで……なんで避けないんだよ……っ!?」
斬られたはずの炎は、痛がる素振りすら見せず、ただ静かに微笑んでいた。
「……あいつを……スノーを、これ以上待たせたら悪いだろ」
頭を乱暴にかきながら、どこか照れくさそうに。
けれど、兄が弟を見るような、とても優しい顔で。
「そろそろ戻れ、刀。俺の力は、確かにお前に預けたぜ」
その言葉を最後に、世界のすべてを構築していた黒い闇が、音もなく崩壊を始めた。
足元の闇がガラスのように砕け、空間が激しくひび割れ、すべてが濁流のような眩い光へと変わっていく。
炎の姿もまた、その温かな光の中へ溶けていった。
まるで最初から存在しなかったかのように、けれど、確かに刀の胸の奥に、消えない熱を残して――。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
網膜を刺すような眩しい朝の光が、視界をいっぱいに満たした。
「……っ」
見慣れない、白の王国の豪奢な天井。
己の意識が現実へと帰還したのだと理解するまで、少しだけ時間がかかった。全身を襲う倦怠感。だが、胸の奥の器は静かに、力強く脈動している。
横を見ると、白の王女が静かに椅子へ腰掛け、書類に目を落としていた。
そして――。
刀の胸元に、愛おしい重みがあった。
覆いかぶさるようにして、疲れ果てたスノーが小さな寝息を立てて眠っていた。長い銀髪が、刀の寝間着の胸元へと綺麗に流れ落ちている。
刀が愛おしさに頬を緩め、わずかに身体を動かした瞬間、彼女の細い肩がぴくりと震えた。
ゆっくりと、真珠のような瞼が開く。
そして、目の前の男と視線が交わった瞬間。
「……刀……っ!」
スノーの大きな瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
布団ごと、勢いよく刀の胸へと抱きついてくる。
「よかった……っ、本当に……本当によかった……!」
震える声。泣きながら、それでも必死に笑おうとしている愛らしい顔。
刀は少し照れくさそうに頬を掻きながらも、その柔らかい銀髪の頭を、大きな手で優しく撫でた。
「悪かったな、心配かけて。……なぁ、スノー。俺、炎に会ったぞ」
「えっ……?」
スノーが涙を拭い、驚いたように顔を上げる。
「なんで刀が、炎のこと知ってるの……?」
刀は、己の内に確かに息づく相棒の気配を感じながら、悪戯っぽく苦笑した。
「あいつさ……お前の言う通り、めちゃくちゃ不器用で、めちゃくちゃ熱い奴だな」
一瞬だけ、スノーは呆然と口を開けていた。
だが次の瞬間、すべてを察したように、ふふっと小さく、愛おしそうに吹き出した。
「……ほんとにね。バカみたいに真っ直ぐな人よ、あいつは」
二人の柔らかな笑い声が、静かな病室に温かく響き渡った。
それはまるで、あの地獄のような長い悪夢が、今度こそ完全に終わったことを告げる夜明けの鐘のようだった。
穏やかな空気が流れる中、不意に、部屋の隅から低く引き締まった声が響いた。
「……少しいいか? 」
刀とスノーは、心臓が跳ねるように同時に振り返る。
「あっ」
思わず声が重なった。部屋に王女がいたことを、完全に忘れていたのだ。
王女は小さく、大人の余裕を感じさせる微笑みを浮かべながら椅子から立ち上がる。
しかし、その瞳には一瞬にして、一国を統べる王族としての絶対的な威厳が宿った。
「まずは――約束だったな。」
王女は真っ直ぐに刀を見つめ、隠されていた世界の真実を告げる。
「雪の行方だが……ここより遥か北方、黒の国の深淵にある、永久凍土の“氷でできた黒き城”そこに住まう、“黒姫”と呼ばれる者に会え」
部屋の空気が、一瞬で張り詰めた静寂に支配される。
「会えば……お前たちが求めるすべての真実が分かるはずだ」
王女の言葉は短かった。だが、それゆえに確かな、拒めぬ重みを持っていた。
まるで、彼らの運命が向かうべき、北極星の道標のように。
その時だった。
激しい足音と共に、勢いよく部屋の扉が開け放たれた。
「王女様! 緊急事態です!」
白の国の従者が、息を限界まで切らしながら部屋へと駆け込んできた。
「黒の国の騎士団が……突如として、あの“黒き城”へ向けて進軍を開始したとの報せが、先ほど国境の偵察部隊より入りました!」
空気が、一変する。
肌を刺すような極限の緊張感が、一瞬にして部屋を支配した。黒き城が動くということは、ルナを奪った魔将ルミナも、そこにいる可能性が高い。
刀とスノーは顔を見合わせ、頷いた。
そして、言葉を交わすまでもなく、迷うことなくベッドから立ち上がった。
「行くぞ、スノー。これ以上、のんびり寝てる暇はねぇ」
「うん、刀!」
二人が決然と旅の支度へ向かおうとした、まさにその瞬間だった。
王女は、自身の左手のはめていた、あの闘技場で圧倒的な輝きを放っていた指輪を外した。
そして、何の前触れもなく、それをスノーへと放り投げたのだ。
「えっ――わっ、とと!」
慌ててスノーが両手でお手玉をするようにして、必死にそれを受け止める。
掌の中に収まったのは、擬似的に器の力を引き出す、美しく輝く国宝の銀の指輪。
王女は静かに、けれどどこか悪戯っぽく告げた。
「貸してやる。今のままのお前では、道中で野垂れ死にしかねんからな」
「え……でも、これって……」
「その指輪は……我が国の最高国宝だ」
王女は傲然と胸を張り、スノーの目を射抜いた。
「あげたわけじゃないぞ、必ず生きて私の元へ返しに来い。命令だ」
その毅然とした言葉の奥に込められていたのは、冷徹な王の命令ではない。
生きて戻れという、不器用で、最大級の『信頼』だった。
スノーの目から、再びじわっと温かい涙が溢れそうになる。
「……はい……! 必ず、二人で生きて返しに来ます……!」
王女はそれを見て、心底呆れたように大袈裟に肩をすくめてみせた。
「まったく、お前は本当に泣いてばかりだな。スフィアの奴、どんな育て方をしたらこんな泣き虫になるのか」
スノーは、今度は涙を袖で力強く拭いながら、満面の笑みで言い返した。
「だって……嬉しいんだもん……! 仕方ないじゃない!」
その健気な言葉に、刀も思わず深い笑みを浮かべた。
三人の間に、昨日までの絶望を塗り替えるような、温かで強い絆の空気が流れる。
これは、悲しい別れではない。
必ずまたここで笑い合うという、再会を約束した、希望の旅立ち。
そして――。
刀とスノーは、失われた仲間を取り戻すため、そして新たな真実を求めて、再び一歩を踏み出す。
目指すは黒の国の最果てにそびえ立つ黒き城。
全ての運命と、因縁が待つ場所へ。
二人の『器』の、真の反撃を懸けた旅立ちの時は、静かに、けれど熱く幕を開けた。




