第三十四話
刀が崩れ落ち、這いつくばる闇の底。そこへ、炎が静かに歩み寄ってきた。
その足取りはどこまでもゆっくりとしていたが、退路をすべて断ち切るような圧倒的な重圧を伴っている。炎は刀の前にドサリとしゃがみ込み、至近距離まで顔を近づけた。
その瞳は飢えた獣のように鋭く狂暴。しかし、その奥底には品定めをするような観察の光が宿っていた。
「早く消えろ、小僧。俺は弱者に用はねえんだよ」
吐き捨てられた冷たい声。刀はあまりの悔しさに奥歯が軋むほど歯を食いしばる。炎はその屈辱に歪む表情を見逃さず、ふっと軽蔑を隠そうともせずに鼻で笑った。
「その顔だ。反骨精神だけは一人前だが、お前は弱いくせに、その細い腕で守りたいものだけは無駄に多いんだよ」
言葉のナイフが刀の胸を正確に抉る。炎はさらに刀の精神を追い詰めるよう、わざと残酷な言葉を選んで並べ立てた。
「お前のその腑抜けた体を奪ったら、まずはあのスノーって小娘を血祭りにあげてやる。主が俺に変わったと知った時、あいつが一体どんな絶望の顔をするか……今から楽しみで仕方ねえなぁ?」
「っ……やめろ……ッ!!」
刀の心が、激しい怒りと恐怖で千々に乱れる。しかし、炎の口舌は止まらない。
「その次はあの白の器……雪、とか言ったか。あの女も、同じようにぶち殺してやるよ」
「やめろって言ってるだろ、この野郎ッ!!!!」
刀はふらつき、膝をガクガクと震わせながらも、執念だけで再び立ち上がった。
脳を灼くほどの怒りと、大切な者を失う恐怖が混ざり合い、胸の奥が痛いほどに熱くなる。刀は自身の胸へと力任せに手を当て、血を吐くような震える声で呟いた。
「……頼む……俺に……力を……ッ!!」
心魂の叫びに器が過剰に反応し、濁流のような金色の光が爆発的に溢れ出た。
世界が一瞬、完全な静寂に包まれる。
その光の奔流を目にした瞬間、炎の表情が初めて明確に強張った。
「――やめろ」
その声には、先ほどまでの余裕に満ちた嘲笑は一切なかった。明確な、焦りすら感じられる拒絶。
「またそうやって感情に任せて器の力を暴走させ……今度は全部を灰にする気か。救いようのない愚か者が」
「が……はっ、あ、あ……ッ!」
刀は制御不能の光を抑えきれず、自らの放つ魔力に押しつぶされるように、苦しげに再び闇の床へ膝をついた。
炎はその痛々しい様子を冷徹に見届けた後、ふぅ、と深く、呆れたように息を吐き出した。
「器の力に飲まれるな。感情のままに垂れ流すんじゃねえ、制御しろ」
炎は膝をつく刀の目を真っ直ぐに見据え、ニヤリと挑発的に笑う。
「それができなきゃ、お前は一生、誰かを失って泣くだけの弱者のままだ」
刀は激しく肩で息を荒げながら、血の混じった唾を吐き捨てて呟いた。
「……制御……だと……?」
炎はゆっくりと立ち上がり、刀に背を向けた。
「そうだ。力ってのは、感情に任せて『求める』ものじゃねえ。……己の意志で『扱う』ものだ」
その静かな言葉は、先ほどのどんな罵倒よりも深く、刀の胸に鋭く刺さった。
刀はなおも荒い呼吸を繰り返しながら、今度は静かに己の胸に手を当てた。
「……こうか……?」
意識を内側へと向け、暴れ狂う器の力を宥めるように魔力を練る。
再び器が光を放ち始めるが――その光は未だ荒々しく尖っており、制御とは程遠い暴虐の輝きだった。
炎は小さいため息をつくと、振り返る動作のまま、電光石火の速さで軽く足を振るった。
「違う」
重苦しい一言とともに、容赦のない蹴撃が刀の腹部を捉え、彼の身体は後方へと派手に吹き飛ばされた。
闇の地面を何度も転がる。肉体的な痛みよりも、一歩も届かないという悔しさが鋭く胸を刺した。
「くそ……、まだだ……!」
刀は這い上がり、三度立ち上がって全身に力を込める。
だが、炎は冷酷に首を横に振るだけだった。「同じだ」
次の瞬間、視認すらできない速度の拳が刀の顔面に飛び、彼はまたしても闇の地面へと叩きつけられた。
一歩進んでは叩き落とされ、立ち上がっては捩じ伏せられる。何度も、何度も。
刀が立ち上がるたびに、炎は一切の手加減を排して、徹底的に彼を叩き落とし続けた。
やがて刀はピクリとも動かなくなり、闇に沈み込むようにして倒れ込んだ。
炎は大剣を地面に突き刺すと、その横にどさりと座り込み、軽く肩をすくめた。
「……ちと、やりすぎちまったか?」
しかし、乱暴に頭を掻くその声には、どこか教え子を見守るような、楽しげな響きが混ざり合っていた。
しばらくの静寂の後、刀が泥を舐めながら、ゆっくりと重い目を開けた。
「……なぁ、あんた……本当は、何がしたいんだよ」
炎は視線も向けず、即座に答えた。「言っただろ。お前の体を奪う」
「ふっ……。カハッ……!」
刀は思わず吹き出し、痛む脇腹を押さえた。「奪いたければ……お前ほどの力があれば、俺が気を失った瞬間に、とっくに無理矢理にでも奪ってただろ」
図星を突かれた炎は、バツが悪そうにふいと視線を逸らし、口を尖らせてぼそりと呟いた。
「……お前が少しは強くなった方が、体を奪った時に……面白いだろ」
刀はその不器用な横顔を見つめ、細めるように目を和ませた。
「……あんた、スノーが言ってた“黒の器”だよな。昔……スノーを守るために、自分の命を投げ打って死のうとしたっていう……」
その言葉を聞いた瞬間、炎の広い肩がわずかに、目に見えて動揺したように揺れた。
「……あいつ、俺のいねえところでそんな余計なこと言ったのかよ」
刀は構わず言葉を続ける。
「あんた、俺が本当にスノーを守れなくなったと感じたら、真っ先に体を奪って代わりに戦うつもりだったんだろ? 今回だって……」
炎は気恥ずかしさを隠すように、ギリッと刀を睨みつけるように凄んでみせた。
「……当然だ。お前があまりにも弱ければ、あいつは今度こそ死ぬ。死なせるわけにはいかねえんだよ」
刀は緊張感のない、小さく優しい笑みを漏らした。
「……なんだよ、めちゃくちゃ不器用な奴だな、あんた……」
「う、うるせえええええっっっ!!!」
その一言で、炎の顔は耳の裏まで真っ赤に染まった。
「黙れ小僧!」と怒鳴り散らして大袈裟に咳払いをした後、炎は一転して、獰猛で真剣な目を刀の瞳へと真っ直ぐに突き刺した。
「……いいか、よく聞け。心は熱く燃やしても、頭はそれ以上に、氷のように冷静にしろ。器の力ってのは、負の感情に飲まれれば一瞬で暴走して全てを壊す。力を支配しろ。お前が主だ」
刀は深く、深く息を吸い込み、今度は完全に雑念を払い落として胸に手を当てた。
バーンへの哀悼、スフィアへの怒り、ルナへの誓い。それらすべての激情を、冷徹な一心の元に一本の束へと束ねていく。
「……こうか……?」
キィン、と精神世界の闇に澄んだ音が響いた。
器が光を放ち――今度は、あの肌を刺すような荒々しさが完全に消え失せ、周囲を穏やかに照らす、極めて静かで濃密な黄金の輝きへと姿を変えていった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
気合の叫びとともに金色の光が刀の肉体へと急速に収束し、吸い込まれていく。
その瞬間、刀の身体から余計な強張りが消え、劇的に軽くなった。まるで全身に嵌められていた重りがいっせいに外れたかのように、器の強大な力が、彼の意志のままに自然と血管を巡り、脈動していた。
炎は腕を組み、その見事な変貌を目の当たりにして、満足げに不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「……ふん。まあ、まだまだ俺の全盛期には程遠いがな。一応……及第点ってところだ」
ニヤリと笑う炎。刀もまた、大剣の柄を握り直し、相棒に対するそれと同じ信頼の笑みを返し。
「……ああ。ありがとな、炎」
炎は突き刺していた大剣を引き抜き、立ち上がると、床に座り込む刀に向かって、無骨な手をまっすぐに差し伸べた。
「さあ――御託は終わりだ。地獄の続きを始めようじゃねえか」
「おう!」
刀はその力強い手をガチリと掴み、新たな力を漲らせて、力強く立ち上がった。




