第三十二話
王女は超高密度の氷の微粒子を全身に纏ったまま、スノーを射すくめるように鋭く見据えた。
「スノー。器の力は使わんのか?」
突然の核心を突く問いに、スノーは大きく目を見開く。
「だ、だって……そんなことしたら、本当に王女様に大怪我させちゃうかもしれないし……!」
「ハァ……」
王女は心底呆れたように深く、重いため息をついた。
「戦う以前の問題だな。相手の底力すら測れんのか、お前は。……言っておくが、お前より遥かに格上の相手だぞ、私は」
その言葉が終わるや否や、空間の密度が爆発的に跳ね上がった。
――ビリ……ビリビリ……!!!
大気が悲鳴を上げ、スノーの肉体は恐怖で完全に硬直した。凄まじい質量に脳を直接殴られたかのように、膝が勝手にガタガタと沈んでいく。
この、魂まで凍りつくような絶対的な捕食者のプレッシャー。それは紛れもなく――深淵の森で味わった、魔将ルミナの放っていた圧倒的な圧力と同じだった。
「っ……動け……ない……っ!?」
王女は指一本、一歩すらも動いていない。ただ彼女の内に秘められた圧倒的な“覇気”と圧力だけで、スノーを床に押し潰していた。
「これが“格”というものだ。器の力を使わねば、今の私を前に立つことすらできん」
王女が傲然と左手を天へ掲げると、その指輪に嵌め込まれた白い宝玉が、太陽のごとき眩い輝きを放ち始めた。
「――『魔装』」
その厳かなる言霊と同時に、王女の周囲に展開されていた無数の氷の粒が一斉に収束し、激しい音を立てて白銀の鎧へと形を変え、彼女の身体を気高く包み込んでいった。
それはまるで、光り輝く氷の羽衣。極限の冷気が闘技場全体を満たし、強固な石造りの床を真っ白な霜が猛スピードで駆け抜けていく。
「これは我が王国に伝わる、国宝の宝珠。擬似的に、お前たち“器”と同等の力を肉体から引き出す」
白銀の鎧を纏った王女は、冷徹にスノーを指差し、声を張り上げた。
「まだ立てんのか、スノー!! その程度の覚悟で、誰を救い、誰を奪い返すというのだ!」
王女の怒号が、スノーの胸の最奥に眠っていた、理不尽への怒りに着火した。心臓の奥で、何かが激しく爆ぜた。
「う……おおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
次の瞬間、スノーの身体から濁流のような『金色の光』が爆発的に吹き荒れた。
王女の圧倒的な圧力を真っ向から押し返すように、スノーは歯を食いしばり、泥臭く、けれど確実に両足で立ち上がった。
王女の涼しげな瞳が、わずかに驚愕に見開かれる。
スノーは手の甲で乱暴に涙を拭うと、不敵にニヤッと笑ってみせた。
「……ごめんなさい。王女様のこと、ちょっとだけ舐めてました」
その反骨の不敵さを受け、王女の唇もまた、美しい戦士の笑みへと歪む。
「いい目になったな。……ならば、少し揉んでやる!」
――ドッ!!!
地面が爆裂するような音を立て、スノーは金色の光の尾を引きながら、弾丸のような速度で王女の懐へと突進した。
スノーは王女の眼前に一瞬で踏み込み、全体重を乗せた拳を真っ直ぐに振り抜いた。
しかし、その拳が王女の肉体に届く直前、空間に現れた薄い氷の膜に触れた瞬間、すべての運動エネルギーが文字通り外側へと受け流された。
「くっ……!」
止まらない。スノーは息をもつかせぬ連打を次々と叩き込む。
しかし、結果は非情にもすべて同じだった。金色の光を纏った拳は、そのすべてが目に見えぬ氷の盾に弾かれ、逆に殴るたびに王女の纏う極冷の冷気が腕にまとわりつき、感覚がじわじわと麻痺していく。
(これじゃ埒が明かない……!)
スノーが一度距離を取ろうと後退しようとした、その刹那。
視界から王女の姿が消え、気づけば目の前に白銀の鎧が迫っていた。
「――遅い」
短い宣告と共に、王女の鋭い拳がスノーの無防備な腹部へと正確にめり込んだ。
「がはっ……!?」
内臓を揺さぶる衝撃に、スノーはその場に崩れ落ち、膝をついた。激しく呼吸が乱れ、視界がぐにゃりと歪む。
王女はそんなスノーを冷たく見下ろし、吐き捨てるように言い放った。
「力の使い方が致命的に雑だ。お前の師……スフィアは一体何を教えていた? ……まあ、あの程度の女には、器の力を制御する指導など最初から無理だったか」
その言葉が、スノーの胸に、何よりも深く、鋭く突き刺さった。
命を賭して自分を守り、ルミナに魂を喰らわれた、最愛の師匠。その存在を侮辱された瞬間、スノーの脳内は真っ白に染まった。
「……取り消して」
スノーの声は低く、そして怒りで狂おしく震えていた。
「聞こえんな。何だ?」
「スフィアさんのことを……悪く言うのは、取り消せって言ってるのよ!!」
――ドガァァァン!!!
スノーの拳が、これまでとは比較にならない密度で輝き始めた。純粋な怒りと魔力が混ざり合い、黄金の奔流となった一撃が、一直線に王女の顔面へと突き進む。
その尋常ならざる威力に、王女は思わず直感的に身をひねった。
凄まじい風圧と共に、スノーの拳が王女の頬をかすめる。
パキリ、と白銀の魔装の兜が割れ、王女の白い肌に、一条の細い赤い傷が走った。
スノーは己の拳を見つめ、目を見開いた。
「……当たった……?」
王女はそっと指先で自分の頬の血に触れ、それを眺めると、満足そうにわずかに笑った。
「……フッ、少しはマシな一撃を放つようになったな」
王女は再び左手の宝珠に、今度は明確な殺気と共に魔力を込めた。
眩い白い光が弾け、擬似的な器の力と、彼女自身の持つ規格外の魔力が完璧に融合していく。
闘技場の空気が一気にマイナス数十度まで引き下げられ、床の霜が一瞬にして分厚い氷層へと姿を変えた。
「――いいか、魔力と器の力は、こうやって完全に『同調』させるんだ」
王女の周囲に、美しくも危険な氷の結晶が幾重にも舞い踊る。
その絶対的な威風と神聖さを湛えた姿は、まるで神話に語られる『氷の女神』そのものだった。
スノーはあまりの圧倒的な光景に、思わず息を呑んだ。
「……すごい……」
その瞳に宿っていたのは、もはや恐怖や怒りではない。
超えるべき絶対的な壁への――強烈な『憧れ』だった。




