第三十一話
刀の眠る救護室は、あまりにも静かすぎるほど静かだった。
スノーは白く清潔なベッドの横に座り込み、冷たく動かない刀の手を、両手で壊れ物を扱うように強く握りしめていた。
「……刀まで……私の前から、消えていくの……?」
かすれた声は小刻みに震え、胸の奥が物理的に抉られるように締めつけられる。堪えきれずに溢れた涙がぽたりと落ち、刀の動かぬ指先を濡らした。
その時――。
静寂を引き裂く、鋭く冷徹な声が部屋に響き渡った。
「お前は、そこで一体何をしている?」
スノーが弾かれたように顔を上げると、開け放たれた扉の前に白の王女が立っていた。その表情はいつもの慈悲深さを完全に排し、氷のように冷たく、厳しい。
「刀が……目を覚まさないの……っ」
辛うじて言葉を絞り出した瞬間、スノーの大きな瞳から再び大粒の涙が溢れ、頬を伝った。
だが、その涙の訴えを見た王女は――。
突然、肩を揺らし、くつくつと喉の奥で笑い出したのだ。
「……っ!? 何がおかしいのよ!!」
大切な仲間を奪われ、刀まで失いかけているスノーが激昂して叫ぶ。しかし、王女は不敵な笑みを崩さぬまま、静かに、そして残酷に言い放った。
「お前のその哀れな姿を見てな。これでは死んでいったスフィアも、奪われたルナも……あまりにも報われないと思ってな」
「……っ!」
スノーの胸に、鋭い痛みが走る。
王女は容赦なく、さらに言葉の刃を一歩踏み込んだ。
「それに――そうやってメソメソと涙を流していれば、何かが変わるのか? 奪われたものが返ってくるのか?」
その一喝は、雷鳴のように鋭かった。
「あなたに……何がわかるのよ……! スフィアさんを、ルナを、バーンさんを失った私の気持ちが……!」
怒りと悲しみが狂おしく混ざり合い、スノーの声は震える。
王女はフンと肩をすくめ、吐き捨てるように冷たく言い放つ。
「わからんな。そんな場所でただ泣いているだけの、しみったれた弱者の考えなど、私には一切理解できん」
スノーは激しい敵意を込めて王女を睨みつけた。
だが、王女は怯むどころか、逆に射すくめるような、さらに圧倒的な王としての視線を撃ち返す。
「今のお前では、何も救えん。目の前で刀が死にかけても何もできず、また奪われ、また失い、ただ泣き喚くだけだ。違うか?」
胸の最奥に突き刺さる、あまりにも正しい拒絶の言葉。
それでも、今のスノーには言い返すための武器が、反論の言葉が、何一つとしてなかった。
「私は……私は、弱いから……! どうしていいか、もう、わからないのよ……!!」
その叫びは、もはや悲鳴に近かった。
自分の無力さに絶望する少女を見届け、王女はふっと、どこか満足げに笑って静かに言った。
「簡単なことだ。わからないのなら――」
一呼吸を置き、王女の凛とした声が室内に響く。
「――強くなればいい」
その言葉は、冷え切っていたスノーの心の最奥に、小さく、けれど確実な、烈火のごとき火を灯した。
スノーの瞳に、絶望ではない、かすかな反骨の光が戻る。
それを見た王女は、獰猛な肉食獣のように美しく微笑んだ。
「その目だ。その目をするなら、ついてこい、スノー。……ここからが本当の、お前の戦いだ」
スノーは手の甲で手荒に涙を拭うと、ゆっくりと、しかし確実に自らの足で立ち上がった。
王女の堂々たる背中を追って城の地下通路を歩いていくと、突如として視界が一気に開けた。
そこは、城の地下深くにあるとはとても信じられないほど、広大で無機質な闘技場だった。天井には無数の巨大な魔力灯が浮かび、まるで真昼の太陽の下にいるかのように明るい。
王女は慣れた足取りで闘技場の中央へ進み、翻ってスノーへと振り返った。
「安心しろ。この演習場の周囲には、王国最上級の魔法障壁が常時張ってある。ちょっとやそっとの大魔法では、傷一つつかん」
その言葉には、一国の最高戦力としての揺るぎない自信があった。
王女はすっと片手を差し出し、顎を引く。
「さあ、スノー。お前がその手で未来を掴むと言うのなら、まずはその力を見せてみろ」
スノーは一歩後ずさり、自分の両手を見つめる。
「で、でも……本気を出したら、王女様に当たったら……」
王女は鼻で笑った。
「安心しろ。お前の力程度、避けるまでもない。かすりでもすれば褒めてやる」
徹底的な、そして傲慢なまでの挑発。
その言葉が油となり、スノーの胸の小さな火が、一気に青い炎となって燃え上がった。
「……だったら、怪我しても知らないわよ!」
スノーは両手を力強く前方に構え、胸の奥から魔力を一気に収束・集中させた。
彼女の背後の空間に、幾重にも重なる幾何学的な魔法陣が浮かび上がり、そこから極限まで尖らせた大量の氷の銃弾が、凄まじい密度で生成されていく。
王女は腕を組んだまま、避ける素振りすら見せず、余裕の表情でそれを凝視している。
スノーは叫んだ。
「いけ……! 『バレット』!!」
一斉に放たれた氷の銃弾が、激しく空気を裂く音を響かせ、圧倒的な弾幕となって王女の肉体を完全に飲み込む――はずだった。
だが。
――チチチチチチチッ!!!
無数の金属が擦れ合うような奇妙な高音が響き、弾幕は王女に触れるわずか数センチ手前で、まるで意志を持っているかのように、すべて不自然に軌道を逸らされて背後の床へと炸裂した。
王女は、髪一筋すら揺らすことなく、一歩も動いていない。
「……え? なんで……? 確かに狙ったのに……」
スノーが呆然と呟くと、王女はつまらなそうに肩をすくめた。
「どうした? お前の覚悟は、この程度のそよ風か?」
さらに煽るような冷たい声。スノーは悔しそうに唇を噛み締め、今度は魔力をさらに圧縮し、頭上に巨大な一本の氷弾を生成した。
「これなら……!!」
爆音と共に放たれた大質量の一撃。
だが、結果は非情にも全く同じだった。巨大な氷弾は、王女の顔面に激突する直前、目に見えない不可視の力によって強烈に弾かれ、虚しく粉砕された。
「っ……!」
スノーは悔しさと驚愕の眼差しで、王女の周囲を凝視した。
目を凝らし、魔力の流れを限界まで視覚化する――その瞬間、彼女は気づいた。
王女の周囲の空間に、肉眼では捉えきれないほど微細な『氷の粒』が、まるできらめく霧のように全方位に舞っている。空気そのものが、彼女の意志で完全に凍りついているのだ。
スノーは再びバレットを生成し、その構造をよく観察しながら、今度は時間差で放ってみた。
やはり、弾が王女の領域に入った瞬間、その目に見えない超高密度の氷の微粒子が、恐るべき超高速の回転で弾に接触し、その運動エネルギーを殺して軌道を外へと逸らしていたのだ。
「……これ……全部、氷の結界……? 」
王女は、ニヤリと肉食獣のような極悪な笑みを浮かべた。
「やっと気づいたか」
その昏い笑みは、“小細工は終わりだ。ここからが本物の地獄だ”と、静かに告げていた。




