第三十話
宝玉を受け取ったスノーの足は、自らの意志を置き去りにしたかのように、自然と刀の寝所へと向かっていた。
まるで、その手に収まった不気味な黒の宝玉に急き立てられ、導かれているかのように。彼女の歩幅はいつもよりずっと速く、焦燥感だけが胸の中で膨れ上がっていく。
「そろそろ……起こさないと。いつまで寝てるのよ、あいつ……」
自分に言い聞かせるように希望を言葉にしながら、スノーは乱暴に扉を開け、刀の寝台へと駆け寄った。
「刀! いい加減に起きなさいってば!」
いつものように明るい声を意識して作り、勢いよく掛け布団をはぎ取る。
だが――刀はやはり、微動だにしない。包帯に包まれた胸が小さく上下しているだけで、その表情はあまりにも静かすぎた。
「……え?」
嘘でしょう、と呟きながら、彼の頬を強くつねってみる。
肩を何度も揺さぶる。
喉がちぎれんばかりに名前を呼ぶ。
それでも、刀はまるで底なしの眠りの沼に沈み込んだまま、こちらの声が届かない境界の向こう側にいるようだった。
「なんで……なんで起きないのよ……!」
胸の奥がぎゅっと、引き裂かれるように締め付けられ、視界が涙で滲んでいく。堪えきれずに溢れた涙がぽたりと、刀の無防備な胸元へと落ちた。
その時、スノーの視線が、寝台の脇に立て掛けられていた刀の大剣へと吸い寄せられた。
大剣の柄の根元――かつて白銀の龍の手を模して造られた装飾部分。その中心にある空洞の大きさが、いま自分が握り締めている“黒の宝玉”と、寸分違わずまったく同じだったのだ。
「……まさか……」
嫌な予感と一縷の望みが交錯する中、スノーは震える手で、宝玉を大剣の龍の手へとそっと近づけ、当ててみた。
その瞬間――。
漆黒だった宝玉が、爆発的なまばゆい光を放ち始めた。
さらに、大剣の龍の手がまるで生き物のように蠢き、宝玉をガチリと力強く掴み取るようにして形を変えていく。
部屋全体を白昼のように照らし出す強烈な光に、スノーは思わず腕で目を閉じた。
やがて――光はすっと引くように消え去った。
黒の宝玉は完全に大剣の機構の一部として吸い込まれ、まるで最初からそこにはめ込まれていたかのように、完璧な調和を保って収まっていた。
スノーは腕を下ろし、呆然と立ち尽くす。
「……なに、これ……どういうこと……?」
刀はまだ眠ったままだ。
だが、その大剣は――まるで“内に眠る何かが目覚めた”かのように、ドクン、ドクンと、不気味に、けれど力強く脈動を始めていた。
その頃、刀の意識は、底の見えない完全な闇の深淵に沈んでいた。
足元に感覚はなく、空気も、時間すらも存在しない、無限の虚無。
どれだけ力を込めようとしても、身体は一ミリも動かない。叫ぼうとしても、声は喉に張り付いて音にならない。ただ、五感を窒息させるような黒い闇だけが世界を支配していた。
だが、その狂おしい闇の向こうから、あの悍ましい光景が、まるで悪夢の再現のようにせり上がってきた。
血まみれになり、無数の針を背に受けて倒れているバーンの背中。
「……っ、バーン……! バーン!!」
叫ぼうとする刀の声は掠れ、虚空に消える。助けに行こうにも、やはり足は地面に縫い付けられたように動かない。
「なんで……なんでだよ! なんで俺の身体は動かないんだ!!」
刀の血を吐くような叫びは、冷酷な虚無へと吸い込まれていく。
それだけでは終わらない。視界の端に、今度はスフィアとルナが並んで立っているのが見えた。二人とも生々しい血に染まり、一切の感情を排した無表情で、じっと刀を見つめている。
「スフィア……ルナ……? 無事だったのか……!?」
返事はない。二人の身体は陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には音もなく霧のように消え去った。
そして――最後に現れたのは、スノーだった。
全身血まみれの痛々しい姿で、大粒の涙を流しながら、刀を哀れむように見つめている。
『なんで……助けてくれなかったの……?』
その声は優しく、けれどそれゆえに刀の心を最も深く、残酷に抉り抜いた。
「俺だって……俺だって、助けたかったよ……っ!」
言いかけて、刀は猛烈な悔しさに唇を噛み切った。
どんな言葉を重ねようと、結果がすべてだ。言い訳なんて、できるはずがなかった。スノーの幻影もまた、責めるような目を残して、煙のように消えていく。
刀は闇の床に膝をつき、己の無力さにただ絶叫した。
「なんでだよ……クソッ! なんで俺はこんなに動けないんだ……!!」
その時――。
「簡単なことだ。お前が弱いからだ」
闇の奥深くから、すべてを見透かしたような、低く地を這う声が響いた。
刀が弾かれたように振り向くと、そこには巨大な野獣を思わせる、異様な威圧感を放つ男が立っていた。
鋭い獣の眼光を持ち、その肉体からは黒い炎のような、禍々しい気配が立ち上っている。
「違うのか? 小僧」
刀は悔しそうに歯を食いしばり、血が滲むほど拳を握ったが、男の言葉を否定する言葉を持たなかった。自分が弱かったのは、他ならぬ事実だからだ。
男はゆっくりと、獲物を追い詰める歩調で歩み寄り、刀の目の前で冷酷に言い放った。
「お前が強ければ――バーンも、スフィアも、ルナも死なずに済んだ。あの小娘……スノーも、泣かずに済んだ。すべてはお前の無力の結末だ」
「そんなこと……言われなくたって、わかってる……!!」
刀の胸が激痛に締め付けられる。彼は男を睨みつけ、魂を絞り出すように問いかけた。
「どうすれば……どうすればいいんだよ……! 俺に、力をくれよ!!」
その悲痛な叫びを聞き、男は獰猛に笑った。
その笑みはまさに飢えた獣のそれであり、底知れぬ暗黒の闇を孕んでいた。
「ならば、俺にその身体を明け渡せ。そうすれば、お前の望む力をくれてやる」
男が不敵に手をかざした、その瞬間――。
現実世界でスノーの目の前にあるはずの、あの刀の大剣が、まるで当然の義務のように男の手元へと飛来し、その手に収まった。
「なっ……お前、何しやがる! それを返せ!!」
刀が激昂して叫ぶと、男は面白くてたまらないとばかりに、愉快そうに大笑いした。
「……よく覚えておくがいい。俺の名は――『炎』、この白き大剣の本当の主。」
男は奪った大剣を無造作に構え、その名を告げる。
「――“黒の器”だ」
その言葉と完全に同調するように、刀の足元の闇から、まるで地面を突き破るように、もう一本の巨大な大剣が生え現れた。だが、その刃はどす黒く染まり、まるで刀の肉体そのものを飲み込もうとするかのように不気味に脈動している。
炎はパチンと小気味よく指を鳴らすと、次の瞬間、獣のような野生の速度で刀の間合いへと肉薄した。
「さあ、剣を取れ、小僧。そして――俺の中で永遠に消え失せろ」
闇が引き裂かれ、全てを焼き尽くすような炎の咆哮が、無力な刀を飲み込むべく襲い掛かった。




