第二十八話
戦況は遅効性の毒のように、じわじわと刀たちの体力を削り取っていた。
ベノムは冷徹だった。片手で刀の必死の猛撃を受け止め、もう片方の腕から龍鱗の弾丸を容赦なく掃射する。鋭利な白銀の雨が空を裂き、スノーの周囲へ降り注いだ。
「くっ……近づけない……!」
刀は歯を食いしばり、一歩でも間合いを詰めようとするが、攻め手を欠いたまま時間だけが残酷に過ぎていく。焦燥が肌を焼く中、ベノムが喉の奥で不気味に 嗤った。
「見ろ、黒の器よ……あの哀れな者たちの姿を」
刀が反射的に視線を向けた、その先――。
そこには、血まみれになり、今にも糸の切れた人形のように倒れそうなバーンとスフィアの姿があった。
「……っ!」
ほんの一瞬、刀の心に致命的な動揺が走る。
百戦錬磨の魔王が、その隙を見逃すはずもなかった。閃光のごときベノムの爪が、刀の左肩を深く、容赦なく貫いた。
「ぐああああっ!!」
鮮血が派手に飛び散る。ベノムは確実な死を贈るため、追撃の爪を振り下ろした――。
だが、そこに刀の姿はなかった。
「……ほう?」
ベノムが怪訝に目を細めた背後。ふらつきながらも、信じがたい執念で立ち上がる刀がいた。
その位置は、偶然か必然か、ベノム本体と別働の黒龍が一直線に並ぶ、文字通りの“死線”の中心。
刀は震える手で大剣の柄にそっと手を添え、血の混じったかすれた声で呟いた。
「……頼む……力を、貸してくれ……!」
大剣が微かに共鳴するように震え、キィンと澄んだ金属音が脳裏に響いた気がした。
次の瞬間――大剣から濁流のような金色の光が溢れ出し、刀の胸へと流れ込み、一気に全身の神経へと駆け巡った。
世界から、すべての音が消え去る。
気づけば、刀はバーンの前に音もなく立っていた。
そして――。
ゴトッ、と重い音が二つ、同時に響いた。
ベノムと黒龍の巨大な首が、何が起きたのかすら理解せぬまま、同時に地面へ落ちて転がった。
「カハッ……!」
刀はその場に糸が切れたように崩れ落ち、口から血を流しながらも、狂おしいほど不敵に笑った。
「……やったぜ……バーン……」
バーンは満身創痍の弟子を見下ろし、その生涯で最も誇らしげに、優しく微笑んだ。
「……よく、やった……お前らは……俺の誇りだ……」
だが、その至高の瞬間に、ベノムの怨念に満ちた断末魔が重なった。
「黒の器……タダでは死なん……道連れだァァ!!」
崩壊していくベノムの肉体から、凶悪な無数の黒い針が生成され、全方位――いや、身動きの取れない刀へ向けて一斉に放たれた。
「――っ!」
避ける気力も残っておらず、刀が死を覚悟して目を閉じた瞬間。
――ガシャッ!!!
鈍く重い金属音が響き、同時に、生暖かい大量の血が刀の頬に飛び散った。
恐る恐る目を開けた刀の視界に映ったのは、大きな背中だった。
バーンが自らの肉体を盾にして、刀を庇うようにして倒れ込んできたのだ。その背には、無数の黒い針が深く突き刺さっている。
「なんで……なぁ、なんでだよバーン……っ!」
刀の声が、子供のようにガタガタと震えだす。
バーンは溢れる血を隠そうともせず、かすかに、けれど満足そうに笑った。
「弟子を……命懸けで守るのが……師匠の役目だろ……」
「やめろよ……そんなの頼んでねぇよ……! おい、目を開けろよ!!」
「強くなったな……刀……続きは……あの世で……勝負だ……」
その言葉を最後に、偉大な剣士の瞳から、完全に光が消え失せた。
「バーンさあああああああん――ッ!!!!」
刀の、魂を切り裂くような絶叫が深淵の森に響き渡る。
やがて激しい叫びは嗚咽へと変わり、ただ少年の泣き声だけが、冷え切った森に取り残された。
しかし、そのあまりにも悲痛な静寂を破ったのは――。
パチ……パチ……パチ……。
場にそぐわない、ゆっくりとした、嘲笑を孕んだ拍手の音だった。
涙に濡れた目を剥き、刀とスノーが弾かれたように振り向く。
そこには、満面の笑みを浮かべて拍手を送るスフィアがいた。
だが、その様子は完全に常軌を逸していた。美しかった彼女の髪は白銀からどす黒い闇の色へと染まり、白磁の肌は不気味な灰色に変色し、瞳には底知れない邪悪な光が宿っている。
「いい余興を観させてもらいましたわ。人間の身で、実に見事な足掻きでした」
紡がれたのは、スフィアの艶やかな声ではなかった。
どす黒く、地獄の底から響くような、背筋が凍る悪魔の声。
「っ……あ、あ……」
スノーは声を上げようとしたが、突然、身体が金縛りにあったように動かなくなった。スフィアの形をした怪物から放たれる、圧倒的なプレッシャーが彼女の魂ごと押し潰していた。
「ベノムはいい仕事をしました。恐怖と絶望で、器の力をより強固に練り上げてくれたわ。……でも、悲しいかな。まだ収穫には熟していないわね」
スノーは歯をガチガチと鳴らし、震える声で叫んだ。
「スフィアさん……嘘、でしょ……? 冗談よね……っ!」
スフィアだった“何か”は、愉快そうに肩を揺らして笑った。
「私は魔将ルミナ。スフィアという女の魂なら……さっき美味しく食べちゃった」
絶望。スノーの瞳から、一瞬ですべての色が抜け落ちる。
ルミナは今度は、わざわざ生前のスフィアの声を完璧に真似て、小悪魔のように首を傾げた。
「こっちの声の方が好きなんでしょ? スノー? 呼んでみて、お姉様って」
「やめろ……ッ! その声で喋るな……その気高い身体を、汚すなあああッ!!」
ルミナは楽しげに微笑む。
「いいわよ。一発でも、私に攻撃を当てられたらこの身体を返してあげる。さあ、どうしたの?」
スノーは狂ったように魔力を練り、動こうとするが、指先一つすら微動だにしない。圧倒的な格の差、王と奴隷ほどの絶対的な呪縛。
「なんで……なんで動かないのよ……っ……!」
悔し涙が、止めどなく頬を伝い落ちた。
ピシッ。
不意に、乾いた小さな音が響き、ルミナの灰色の頬に、小さな石ころが当たって弾けた。
「……あ?」
ルミナが不快そうに、ゆっくりと首を巡らせる。
その視線の先。全身血まみれの刀が、いまにも崩れ落ちそうな足取りで、ふらつきながらも確かに立っていた。その手には、先ほど投げつけたであろう小石の泥が残っている。
「一発……当てて、やったぜ……。約束、どう……守って、もらう……ぜ……」
言い終える前に、ルミナの姿が視界から消えた。
次の瞬間、刀の目の前に現れたルミナは、一切の感情を排した無表情のまま、刀の顔面を、頭部を、何度も、何度も、容赦なく踏みつけた。
バキッ。
グシャッ。
ドチャッ。
悍ましい破壊音が響くたびに鮮血が飛び散り、刀の身体が泥の中へと沈んでいく。
「やめてぇぇぇぇ!! もうやめて、お願いだからぁぁぁ!!」
スノーの絶叫が森を木霊する。ルミナは作業のように刀を踏みつけながら、淡々と呪文のように呟いた。
「器は黒姫様のために殺せない……まだ殺せない……生かさなくては……殺せない……」
その声は、狂気と盲目的な忠誠が混ざり合った、底の見えない闇そのものだった。
ルミナはピタリと足を止めると、今度は絶望にへたり込むスノーの前へと歩み寄り、スフィアの顔で冷酷に笑った。
「この身体、強いと思ったけれど……魔力が弱すぎるのね。つまらないわ」
ルミナの邪悪な瞳が、怪しくギラリと光る。
「……ねえ、あなたのほうが……もっと美味しそうで、面白そう」
その視線が、スノーの隣で怯えるルナへと向けられた。ルミナの手が、ゆっくりとルナの頭部へと伸びる。
「やめて!! お願い、やるなら私にして!! ルナに触らないで!! スフィアさんを返してよぉ!!」
スノーの裂傷のような叫びは、魔将には一切届かない。
ルミナの手がルナの頭に触れた瞬間、ルナの喉から、この世のものとは思えない引き裂かれるような悲鳴が上がった。
「――――――――――っっっ!!!!」
ルナの身体からどす黒い煙が猛烈に噴き出し、それと同時に、スフィアの身体がボロボロと崩れ落ちていく。スフィアの肉体はそのまま黒い霧となって、跡形もなく消え去った。
スノーの瞳から、完全に光が消え失せていく。
やがて濃密な霧の中から、ゆっくりと一人の少女が立ち上がった。
「……まあまあね。悪くない魔力だわ」
その声は、間違いなくルナのものだった。
だが、その美しい髪も、肌も、瞳も、すべてがどす黒い絶望の色に染まりきっている。
「またね」
ルナの姿をした“何か”は、嘲笑を残し、闇に溶けるようにしてその場から消え去った。
残されたのは――。
ピクリとも動かず泥に伏せる刀と、魂を抜かれたように崩れ落ちるスノーだけ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
誰もいない深淵の森に、ただスノーの狂おしい泣き叫ぶ声だけが、いつまでも、いつまでも冷たく響き渡っていた。




