第二十六話
森の中は、異様なほど静まり返っていた。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、これまであれほど執拗だった魔獣の気配すら一切ない。完全な死の世界。刀は不快そうに眉をひそめ、隣を歩くバーンに問いかけた。
「……なぁ、本当にこっちで合ってるのか? 生き物の気配がまるでしねぇぞ」
「合ってる。この先に奴がいる。だが――静かすぎるな」
バーンがさらに警戒を強めた、その瞬間だった。
張り詰めた静寂を切り裂き、森の奥から悲痛な少年の悲鳴が響き渡った。
「たすけてぇぇぇ!!」
茂みをかき分け、数体の魔獣に追われた一人の少年がこちらへ向かって全力で走ってくる。その必死な姿に、刀は反射的に前へ飛び出した。
「おい、危ねぇ! こっち来い!」
「待て、刀! 追うな!」
バーンが鋭い声で制止する。しかし、すでに遅かった。
少年と刀がすれ違おうとしたその刹那、少年の純朴な瞳が妖しく濁った。
少年の細い右腕が、一瞬でどす黒い“熊の巨腕”へと変形し、刀の無防備な腹部へと狂暴に振り下ろされたのだ。
――ガキィンッ!!
重く鈍い金属音が森に響く。
「刀!!」
スノーが悲鳴のような声を上げた。だが、土煙の向こうで刀は不敵に立っていた。彼は直感的に罠だと察知し、咄嗟に大剣の腹を自身の腹部へと差し込み、肉薄する熊の爪を極限のタイミングで受け止めていたのだ。
「……言われなくても、これくらいはわかってるっての」
少年はチッと忌々しそうに舌打ちした。
「ちっ……冴えてるね、人間の分際で」
少年は、自らを追ってきたはずの背後の魔獣たちを、まるで泥のように自身の肉体へと吸い込んでいく。そして、優雅に、ゆっくりと深くお辞儀をした。
「ようこそ――深淵へ」
その身体から、禍々しい黒いオーラが爆発的に噴き出した。
少年の顔面が引き裂けるようにして虎の凶相へと変わり、両腕は硬質な毛並みの熊へ、背中からは飢えた狼の皮膚が次々と生えていく。それは、あらゆる獣の凶悪な部分だけを煮詰めて狂わせたような、“混成獣”の姿だった。
「さようなら、哀れな人間ども」
大気がビリビリと震える。
「私はベノム。この世界の獣を統べる、魔獣の王だ」
発せられた絶対的な捕食者のプレッシャーに、全員の背筋に冷たい戦慄が走る。
バーンは大剣を厳重に構え、低く地を這うような声で言った。
「ここからが本番だ。……おい小僧ども、死ぬなよ」
刀は大剣を握り直し、恐怖を噛み潰すように不敵に笑ってみせた。
「死ぬわけねぇだろ。速攻でぶち倒す。……雪が、俺を待ってるんだ」
森の深淵で、世界の運命を賭けた決戦の幕が上がる。
「行くぞ!」
バーンの短く鋭い号令とともに、刀とバーンは左右に鋭く散り、同時にベノムの首へと斬りかかった。
だが、ベノムは微動だにせず、熊のような巨大な二本の爪で二人の大剣を易々と受け止める。キィキィと金属が猛烈に軋む音が森に響き渡った。
その膠着の瞬間を、後方の魔女が見逃すはずもなかった。
「――『弩砲』」
スフィアの手から放たれた、バリスタの矢のごとき巨大な氷の質量兵器が空気を爆裂させて飛び、ベノムの無防備な腹部へ一直線に突き刺さる。
命中した、そう確信した瞬間――。
――バキィンッ!!
激しい音を立てて氷が粉砕され、輝く破片が雨のように森に降り注いだ。
見れば、ベノムの腹部から“もう一本の不気味な熊の腕”が生え、スフィアの魔法を正面から叩き潰していた。
スフィアは美貌をわずかに歪め、目を細める。
「……チッ、一筋縄ではいかないわね」
「じゃあ、これはどう!?」
間髪入れず、スノーが限界まで魔力を集中させた螺旋状の氷弾を放つ。「『氷嵐弾』!」
超高速の弾丸がベノムを襲うが、ベノムは紙一重で身をひねり、その軌道をすり抜けた。
「逃げた先は――!」
スノーの視線の先、ベノムが回避した空間には、すでにルナが待ち構えていた。
「完全に読んでたよ!」
風の魔力を極限まで纏わせ、限界まで威力を引き上げたルナの拳が、ベノムの虎の顔面に真っ直ぐ叩き込まれた。
ドガァンッ!と凄まじい衝撃音が炸裂し、さしもの魔王の巨体も横へと大きく吹き飛んでいく。
スノーが即座に駆け寄り、ルナとパチンと手を合わせた。
「作戦どおりね、ルナ!」
「うん、バッチリ!」
完璧なコンビネーションを見せた二人に、スフィアは満足げに頷く。
「やるわね、あなたたち。合格よ」
バーンは鼻で笑い、吹き飛んだベノムを挑発するように大剣の先を向けた。
「腕はいっぱいあるようだが……頭はすこぶる悪そうだな、魔獣の王さんよ」
その傲岸な言葉に、ベノムの動きがピタリと止まった。
次の瞬間、空気が一変した。森全体が恐怖に歪むように、みしみしと音を立てて軋み始める。
立ち上るどす黒い靄がベノムの身体を包み込み、その巨体がさらに歪に、禍々しく膨れ上がっていく。
「……人間風情が……我が技術を、知能を愚弄するか……」
ドスン、とただ立ち上がっただけで、周囲の地面が自重で深く沈み込んだ。
「我を――これ以上、愚弄するなあああッ!!」
深淵の闇そのもののような、底知れない圧倒的な重圧が森一帯を支配した。真の力を解放し始めた魔王を前に、五人は武器をさらに強く握り締める。




