第二十話
最初にその決定的な“変化”の兆候を見せたのは、刀の側だった。
「……はぁ……はぁ……っ!」
刀は荒涼とした大地に片膝をつき、肺を焦がすような荒い息を吐き散らしていた。
全身を襲うのは、骨の髄まで焼き尽くすような苛烈な痺れ。すでに十本の指先の感覚は完全に消失している。限界を超えた脳が見せる視界は白く霞み、目の前に立つ大男――バーンの姿も、もはや揺らめく不確かな輪郭としてしか捉えられない。
それでも、刀は折れた大剣を杖代わりに、泥泥になりながら再び立ち上がった。
「……まだ……まだ終わってねぇ……ぞ……!」
バーンはその執念の姿を、一切の感情を排した静かな瞳で見つめていた。ただ、その大ぶりな漆黒の「虚の剣」を、無慈悲に、そして完璧な予備動作なしの構えで横へと移行させる。
「往くぞ。――避けてみろ」
刀は動かない。いや、肉体が悲鳴を上げ、物理的に動くことができなかった。
次の瞬間、空間そのものを叩き割るような、実体を持った漆黒の斬撃が、刀の真上から容赦なく垂直に振り下ろされた。
ドゴォォォンッ――!!
凄まじい衝撃波とともに砂煙が爆ぜ、頑丈な大地がクレーター状に激しく抉れる。
バーンは確信していた。今の刀の満身創痍の状態では、反応速度の理論値をどれだけ引き上げようとも、この一撃を避けることは絶対に不可能なはずだ、と。
だが――。
「……ん?」
晴れゆく煙の中で、バーンは自身の直感に走った奇妙な“違和感”に眉をひそめた。
そこに、あるはずの肉体がなかった。
何かが、決定的に“ずれて”いた。
刀は、物理的な速度で動いたのではない。まるで最初からそこにはいなかったかのように、ほんのわずかに、自然の理に従って身体を横へと滑らせていた。バーンの絶対的な斬撃を、文字通り紙一重の断層で回避していたのだ。
そして刀はそのまま、白く霞んで何も見えないはずの視界のまま、肉体に刻まれた本能の命じるままに、大剣の切っ先を突き出していた。
シュッ。
衣服の擦れる小さな音。
次の瞬間、百戦錬磨の豪傑であるバーンの硬い頬に、一本の細く赤い線が走った。
つう、と一筋の鮮血が流れ落ち、彼の顎を濡らす。
刀は膝をガクガクと震わせ、ふらつきながらも、子供のように勝ち誇った笑みをその口元に浮かべた。
「……見たかよ……バーン……。……一撃……。お前についに、一撃……食らわしてやったぞ……」
その満足げな言葉を最後に、刀の糸が切れたように身体が崩れ落ちた。地面に倒れ込んだ少年は、完全に深い気絶の底へと落ちていく。
バーンは頬を伝う血を親指で無造作に拭い、その指先を見つめながら、その場で静かにクククと笑い出した。
「……見事だ、小僧。ようやく、ただの素振りから“剣士”としての一歩を踏み出したな」
その厳格な男の笑みには、底知れない師としての誇りと、この雛がどこまで化けるかという狂おしいほどの期待が、確かに滲んでいた。
翌日。遮るもののない荒野での、再度の修行。
刀は大剣を正対して構えたまま、唐突に、ぎゅっとその両眸を強く閉じた。
その予想外の行動に、バーンは片方の太い眉を上げる。
「なんだ? 早くも絶望して、白旗でも揚げるつもりか?」
刀は静かに首を振った。目を閉じたまま、少年の唇から紡がれたのは、昨日までの彼からは想像もつかないほどに静謐な言葉だった。
「違う。……目に頼るから、何も見えねぇんだ。世界の眩しさに、俺の意識が負けちまうんだよ」
その答えを聞いた瞬間、バーンの凶悪な口元が、ゆっくりと、愉悦を堪えきれないように吊り上がった。
「……ほう」
刀は深く、深く大気の底から息を吸い込み、全神経を肉体の内側へと研ぎ澄ませた。
視覚という最大の情報を自ら遮断したことで、他の感覚が爆発的に拡張されていく。風に揺れる髪の毛一本、爪の先、毛穴の隅々に至るまで、自らの存在を掌握していく。
すると――世界が、劇的にその色を変えた。
世界を巡る、遮るもののない風の微細な流動。
大気が震える、かすかな音の波形。
肌の表面をチリチリと刺すような、空間に満ちた万物の微細な気配。
そして何よりも――。
目の前に立つバーンという男の存在が、まるで暗闇の中に燃え盛る、天を突くほどに巨大な「業火」のように、圧倒的な質量を持ってそこに“在る”のが、克明に脳裏に浮かび上がってきたのだ。
「……バーン。あんた……」
刀は目を閉じたまま、畏怖を込めて呟いた。
「めちゃくちゃ、強ぇんだな。化け物かよ」
その呟きを聞き、バーンは腹の底から豪快な哄笑を響かせた。
「ガハハハハ! それを肌で、心で感じられるようになったなら――小僧、お前が強くなった何よりの証拠だ!」
大気が爆ぜる。バーンが漆黒の剣を、一転して容赦のない速度で振り下ろした。
刀は、その暗闇の世界に奔る「巨大な炎の軌跡」を正面から受け止めるように、目を閉じたまま、静かに、そして鋭く大剣を迎え撃つように構えた。




