第一話
白と黒の境界線。そこは今や、狂気と硝煙が渦巻く地獄と化していた。
互いの国が明確な敵意を向け合ったわけではない。人々の目的はただひとつ――この世界のどこかにいるという「器」を捜し出し、奪うこと。器を持つ者を殺せば、自国は救われる。そんな根拠のない噂が、乾いた砂に水が染み込むように広がり、兵も民も憑りつかれたように境界へと押し寄せていた。
白と黒の世界は、創造神の気まぐれによって、ゆっくりと、しかし確実に崩壊へ向かっていた。
少年が目を覚ましたとき、視界は白く霞んでいた。
背中に伝わるのは、硬い地面の感触ではない。柔らかい布――ベッドの上だった。
「……ここは……?」
鉛のように重い頭を強引に動かし、ゆっくりと身を起こす。と、足元の方から誰かがこちらを覗き込んでいることに気づいた。
白い髪の少女だった。
年齢は自分と同じくらいだろうか。氷のように澄んだその瞳は、しかし、どこか不安げに揺れている。
「よかった……目が覚めたのね」
少女の声を聞いた瞬間、少年の脳裏に鮮烈な記憶が蘇った。
賑やかな祭りの喧騒。少女との勝負、告白、そして――あの悍ましき創造神の襲来。
『器』
『破壊と凍結の呪い』
脳裏をよぎる不穏なワードに胸がざわつき、少年は思わず問いかけた。
「……ここはどこだ? 俺は……どうなったんだ?」
白髪の少女は静かに、そっと言葉を紡ぐ。
「ここは――白き世界の果て。あなたは雪の中で倒れていたの。凍え死にそうだったから、私がここまで運んだのよ」
「白き世界……?」
聞いたことのない場所だった。だが、胸の奥にある“器”が微かに脈動し、この世界の空気に呼応するように熱を帯びるのを確かに感じた。
少年は戸惑いながら周囲を見回し、ふとある違和感に気づいて尋ねた。
「……家族は? この家には、他に誰か……」
少女は寂しげに首を横に振った。
「いないわ。ここには、私しかいない」
その言葉はあまりにも自然で、だからこそ、酷く痛々しかった。少年は拭いきれない違和感を覚え、視線を窓の外へと向けた。
そこにあったのは――。
吹雪の向こうに果てしなく広がる、静まり返った廃墟だった。
崩れ落ちた塔、無残に割れた大地、そして、すべてを覆い隠すように雪に埋もれた街並み。白い世界のはずなのに、どこか不気味な黒い影がべっとりと染みついている。まるで、世界そのものがすでに息絶えてしまったかのようだった。
少年は息を呑む。
「……ここは、本当に……白の国なのか……?」
少女は窓の外の惨状を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「いいえ……ここは何百年前に滅びた世界、……白の世界の残骸よ」
その声は、窓を叩く吹雪よりも冷たく、そしてどこか、人知れず泣いているように聞こえた。
少年はベッドの上で居住まいを正し、白髪の少女に向き直った。
「……この街は、どうなってるんだ? 外は……廃墟だらけじゃないか」
少女は一瞬だけ睫毛を伏せ、静かに答えた。
「魔物に……滅ぼされたの。この街は今、見捨てられた街って呼ばれているわ」
諦めと悲しみが綯い交ぜになった声。その直後だった。少年の耳に、不穏な風の音が混じる。
――ガルルル……。
――ギャアアアアアッ……!
吹雪の咆哮に混じって、獣たちの生々しい、悍ましい鳴き声がいくつも響いてきた。遠くからではない。すぐ近く、この家の壁一枚隔てた向こう側にいるかのような錯覚さえ覚える距離だ。
「……魔物の声か?」
「ええ」
少女は小さく頷いた。
「この街はもう、人が住める場所じゃない。だから……私しか残っていないの」
あまりにも孤独な告白。
少年の胸の奥が、再び激しくざわつき始める。器の脈動が、外にうごめく魔物たちの邪悪な気配に反応し、警鐘を鳴らすように激しさを増していく。
「どうして……そんな場所に、一人で?」
少年の切実な問いに、少女は答えなかった。
ただ、窓の外で荒れ狂う白い闇を、じっと見つめ続ける。その横顔は、触れればパリンと砕けてしまいそうなほど儚く――そして、何か重大な秘密を隠しているように見えた。
少年は引き寄せられるように、再び窓の外へと視線を向けた。
「……この街は、一体どうなってるんだ?」
少年の掠れた問いに、少女はわずかに長い睫毛を伏せた。
「魔物に……滅ぼされたの。ここはもう、誰にも顧みられない『見捨てられた街』よ」
その声は、窓を叩く吹雪よりも冷たく、けれどどこか、心の奥底で泣いているように聞こえた。
そのときだった。
――ガルルル……ギャアアアアアッ……!
地響きのような地鳴りと共に、悍ましい獣の咆哮が遠くから響き渡った。少年の背筋に、氷を押し当てられたような戦慄が走る。
しかし、少女に動揺の色はなかった。彼女は静かに立ち上がると、振り返って軽く手を振ってみせた。
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
「お、おい! 待てって!」
少年の制止も聞かず、少女は外の白い闇へと消えていく。胸騒ぎに突き動かされ、少年が慌てて外へ飛び出した――その瞬間だった。
視界を遮る吹雪を引き裂き、巨大な『白い影』が獰猛に迫ってきた。
不気味に赤く光る双眸。硬質な純白の毛並み。荒い息を吐き出すたび、その口元から白い霧が渦を巻いて吹き荒れる。それは、この極寒の雪原に君臨する凶暴な魔獣――“白虎”だった。
「うわぁああああっ!」
あまりの質量と殺気に圧倒され、少年が雪の上に尻もちをついた瞬間。
――ドガァァァァンッ!!
鼓膜を震わせる凄まじい轟音。
次の瞬間、突進してきた白虎の巨体が、まるで操り人形の糸を切られたようにドサリと雪原に崩れ落ちた。その巨躯には、大地から突き出た無数の鋭利な氷柱が深く突き刺さっており、すでにぴくりとも動かない。
少年が呆然と目を見開いて見上げると、激しい雪煙の向こうから、白髪の少女がふわりと降りてくるところだった。
背中には、氷の羽を模したかのような濃密な魔力をまとっている。その幻想的な姿は、人間というよりも、極北の地に棲まう雪の精霊そのものだった。
少女は着地すると、少年に向かってにこりと無邪気に笑いかけた。
「今日のおかず、捕まえたわ」
愛らしい笑顔。しかし、その足元には今しがた仕留められた巨大な魔物の死骸が転がっている。そのあまりのギャップに、少年は完全に言葉を失った。
「……お、おかず……?」
「ええ」
少女は不思議そうに首をかしげる。
「食べないと生きていけないもの。この街にはもう、人間なんていなくて、魔物しかいないんだから」
彼女の言い方はあまりにも自然で、息をするのと同じくらい“普通のこと”のように響いた。だからこそ少年は、底知れない恐ろしさに背筋が凍りつくのを禁じ得なかった。
この少女は、ただ運良く生き残っただけの存在ではない。この地獄のような世界を、その圧倒的な力で生き抜いてきた狩人だった。




