第十七話
休憩中、短髪のルナは退屈そうに、軽やかに跳ねるような足取りで準備運動を続けていた。
その横で、スノーは息を整えながらスフィアへと近づき、先ほどからずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「ねぇ……さっきの幻影、一体どうやったの?」
スフィアはいたずらっぽく微笑むと、スノーの澄んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「スノー、あなた……もしかして、人間相手の戦い(対人戦)をやったことがないでしょう?」
核心を突かれ、スノーは少し気まずそうに頬を染め、無言で小さく頷いた。
「やっぱりね。あなたの戦い方は素直すぎるのよ」
スフィアは人差し指の先に、極小の氷の粒をいくつか浮かべて見せた。
「さっきのはね、空間に微細な“氷粒”をばらまいて、それぞれを鏡のように仕立てて私の虚像を映し出しただけ。対人戦においては、こういう『嘘』をいかに混ぜ込むかが基本なの」
スノーは驚きに目を丸くする。ただ圧倒的な力で押し潰すことしか知らなかった自分にとって、それは全く新しい魔術の概念だった。
「……すごい……」
「あなたは持っている魔力が強すぎるの。だからこそ――まずは緻密な『魔力制御』を覚えなさい。そんな力任せな撃ち方じゃ、実戦ではすぐに息切れして倒れちゃうわよ」
そう言うと、スフィアはちらりと、楽しそうにステップを踏んでいるルナの方へ視線を向けた。その目が、わずかに真剣なものに変わる。
「……同じ『素直』でも、あの子は別格よ。あなたの持っている魔術師の概念が、根底からひっくり返るわ」
その言葉に応じるように、ルナがぶんぶんと手を振ってこちらに駆け寄ってきた。
「スノーさん、休憩はもういいの? 次、私の番だよ!」
スノーは深く息を吸い込み、未だ重い身体を強引に奮い立たせて立ち上がった。
「……ええ。お願いします」
「じゃあ――いくよ!」
ルナが制服の靴底で軽く地面を蹴った――その瞬間だった。
スノーの視界から、ルナの姿が完全に掻き消えた。
(――消え……っ!?)
捉えるべき標的を見失い、スノーが思考を巡らせるよりも早く。
――ドガァッ!!
凄まじい衝撃波とともに、スノーの身体は広場の頑強な石壁へと激しく叩きつけられていた。容赦なく打ち付けられた肩の肉が裂け、白い雪の上に鮮烈な赤が流れ落ちる。
「がはっ……、な、何……を、したの……?」
激痛に視界を明滅させながら、スノーは震える声で呟いた。
対するルナは、血に濡れたスノーを見下ろしながら、小首を傾げて無邪気に答えた。
「え? ほんとに、ただ“触った”だけだよ?」
悪意も、躊躇いもないその純粋な無邪気さが、今のスノーには何よりも恐ろしく、底知れない化け物のように感じられた。
「はーい、今日の模擬戦はここまで!」
見かねたスフィアがパン、と軽い音を立てて手を叩いた。
するとルナはその場でぴょんと跳ね、子供のように唇を尖らせて叫んだ。
「えーーーー! まだやりたい! 私、全然動いてないよ!」
壁に背を預けたまま、スノーは溢れそうになる悔しさを必死に滲ませ、掠れた声で食い下がる。
「……まだ……私は、まだ、できるわ……っ」
「何回やっても同じよ。今のあなたの身のこなしじゃ、ルナに触れることさえできないわ」
スフィアは小さくため息をつき、スノーの前に歩み寄ると、その痛む胸元へそっと手のひらを当てた。
次の瞬間――。
スフィアの手から、驚くほど温かで緻密な魔力がスノーの体内へと流れ込んできた。凍え、冷え切っていた身体の芯が、内側からじんわりと心地よく溶けていく。
「この感覚を覚えなさい。魔力を外へ“撃つ”だけじゃなくて、自分の体の中で縦横無尽に、自由に動かすこと。それができなきゃ、あなたは強い一撃を放つ前に、ルナのような速度特化型に一瞬で沈められるわ」
スノーは己の内に巡る魔力の脈動に目を見張り、震える声で絞り出した。
「……ありがとうございます……」
スフィアは満足そうに微笑みながらも、再びルナへと視線を戻す。
「さあ、魔力が少し巡ったところで……もう一回だけ、あの子の『別格』を肌で感じておきなさい。魔術師の概念が変わるわよ」
ルナは待ってましたとばかりにスノーの前に躍り出ると、期待に満ちた爛々とした目を向けた。
「スノーさん、もういいの? 次、私と本気でやるんでしょ?」
スノーはなんとか息を整え、決意を込めて頷いた。
「……お願いします」
「じゃあ――いくよ!」
ルナが軽く足を踏み出した、その刹那。
今度は残像すら残さず、スノーの視界から彼女の存在が完全に消失した。
空気の揺らぎすら感知できない。次にスノーが認識したのは――
――ドガァァァンッ!!
先ほどを遥かに凌駕する質量兵器のような衝撃が、再びスノーの身体を壁へと叩きつけた。受け身も取れず、衝撃で肺の空気が強制的に押し出される。
裂けた肩からは、先ほどよりも深い傷口から生々しい血が溢れ、純白の雪原を赤く染めていく。
「……つ、あ……何、を……」
かすむ視界の先、ルナはやはり不思議そうに首を傾げ、至極当然のように言い放った。
「え? だから、ほんとに“触っただけ”だってば。魔力を足と指先に集めて、ちょっと速く動いただけだよ?」
何の捻りもない、ただ圧倒的な『速度』と『硬度』。魔術を肉体の強化だけに極限まで振った、異端の戦闘スタイル。
その無邪気な恐怖の全貌を理解した瞬間、スノーの限界を迎えた意識は漆黒の闇へと反転し、彼女はその場へ糸が切れたように静かに倒れ込んだ。




