第十六話
白銀の国に朝日が差し込むよりも早く、その部屋には無慈悲な突風が吹き荒れた。
「いつまで寝てるの、刀!」
勢いよく毛布を剥ぎ取られ、頭のすぐ上で響いた鋭い声に、刀はうう、と低い唸り声をあげた。
「……まだ早いって……あと五分……」
這いつくばるようにして毛布にしがみつく刀だったが、スノーの容赦ない手がその脳天をぺしっと叩き落とす。
「起きなさい!」
その様子を、部屋の入り口に佇んでいたバーンが腕を組んだまま、微笑ましそうに眺めていた。凍てつく戦場を生き抜いてきた騎士の目が、今は心なしか和んでいる。
「仲がいいな、お前たちは」
「誰がこんなやつと!」
刀はむくりと起き上がると、寝癖のついた頭のままバーンを真っ直ぐに指さした。
「それよりバーン! 今度こそ勝負だ!」
「まずは朝ごはん! それと……“お願いします”でしょ!」
間髪入れずにスノーの拳が刀の頭にクリーンヒットする。「いてっ!」と頭を押さえる刀を、スノーは有無を言わさぬ力で椅子へと座らせた。テーブルの上には、手際よく作られた湯気を立てる朝食がずらりと並べられていく。
食卓を囲み、温かいスープを口に運んだところで、刀は身を乗り出すようにしてバーンに尋ねた。
「なぁ、バーン。昨日の話だけど、その“強力な魔獣”ってのは、一体どんなやつなんだ?」
バーンの表情から瞬時に笑みが消え、騎士としての峻厳な面持ちに変わった。彼は静かにスプーンを置き、重々しく語り始めた。
「……あれは、“魔獣の王”と呼ぶべき化け物だ。奴の本質は、変幻自在の肉体にある。自らの体の一部、あるいはそのすべてを、あらゆる魔獣の姿へと変化させるのだ。戦況に応じて姿を変える奴の猛攻を前に、我ら白銀騎士団の精鋭は、抗う術もなく一瞬で壊滅した。……我々にわかっているのは、それだけだ」
「へぇ……」
絶望的な報告であるはずなのに、刀の目は不敵に輝いていた。
「面白いじゃん。変幻自在かよ。でも心配すんなって、俺、あの『龍』を倒したんだぜ?」
誇らしげに語る刀の横から、スノーがすかさず氷のように冷たい声を刺す。
「何言ってるの。あれは、見逃してもらったんでしょ?」
「いやいや! あれは俺が確実に倒したって……!」
「私は信じてないから」
顔を見合わせて言い合う二人を見て、バーンは感心したように低く笑った。
「ははは、真相はともあれ、あの龍を相手に生きて戻っただけでも大したものだ。お前は本当に、底知れない『黒の器』なのだな」
バーンの言葉に、刀はこれみよがしにふんぞり返り、得意げに胸を張るのだった。
食事を終えて外へ出ると、極寒の引き締まった空気が肌を刺した。
刀は待ってましたとばかりに、再びバーンに指を突きつける。
「今度こそ勝負だ、バーン! 逃げんじゃねぇぞ!」
「いいだろう。そこまで言うなら、お前の実力、見定めてやる」
バーンが腰の鞘からゆっくりと大剣を引き抜いた。その瞬間、周囲の空気がピキリと張り詰め、肌を打つような濃密な威圧感が弾ける。その本物の戦士の気迫に、刀は思わず気圧されて一歩後ずさった。
その頃、少し離れた雪原の広場では、二人の少女騎士がスノーの元へと歩み寄っていた。
一人は長い髪をなびかせたスフィア。彼女は指先から細烈な氷の結晶を生み出し、それを弄びながら柔難に微笑んだ。
「スノーさん、私たちと少し手合わせしてみませんか?」
その後ろから、短い髪をきれいに切りそろえたルナが続く。
「そうそう。あなた、氷魔法が得意なんでしょ?」
二人の好意的な誘いに、スノーはふっと口元を緩め、自身の指先にも澄んだ冷気を集めてみせた。
「ええ。氷の扱いなら……私も負けないわ」
スノーは二人と共に、深く雪の積もる広場の中央へと歩み出た。
男たちの泥臭い剣戟の音を遠くに聞きながら、白銀の村に、もう一つの新たな修行の朝が始まろうとしていた。
スノーは深く冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、視線を鋭く定めて両手を前に突き出した。
「さあ――行きますよ!」
直後、ズゴゴゴッ……と大地が鳴動し、巨大な氷柱が轟音を立ててスフィアの足元から突き上がった。雪を吹き飛ばし、完全に捉えた――そう確信した瞬間。
スフィアの身体は、まるで朝霧のようにふわりと掻き消えてしまった。
「えっ……!?」
スノーが驚愕に目を見開いた、その次の瞬間だった。
周囲の雪原の上に、まったく同じ姿をした“スフィアの幻影”が、十数体も静かに佇んでいた。どれが本物か、まるで見分けがつかない。
「うそ……っ!」
焦りがスノーの胸を支配する。彼女は全方位に視線を走らせ、手当たり次第に最大級の氷柱を次々と乱れ撃った。
氷が激しく弾け飛び、凄まじい雪煙が辺りを覆い尽くす。その衝撃で幻影たちは次々と霧散していくが、いくら撃っても手応えがない。
「はぁ……はぁ……っ……!」
やがて雪煙が収まったとき、急激な魔力の消耗に襲われ、スノーはその場にがくりと膝をついた。肩が激しく上下し、指先が震える。
その無防備な背後から、優しく、そしてどこか憐れむような声が降ってきた。
「あなた、持っている魔力量は凄まじいわね。でも……少し使い方が雑だわ」
ハッとして振り返ると、そこにはいつの間にか背後に回り込んでいた本物のスフィアが立っていた。最初から、そこに移る気配さえ見せずに。
「そんな大雑把な撃ち方をしていては、すぐに魔力が底を突いてしまう。一撃は重くて強いけれど……長くは戦えないタイプね」
スノーは悔しさに唇をぎゅっと噛みしめ、雪を握りしめた。自分の戦い方の弱点を、あまりにも正確に突かれたからだ。
その横で、短髪のルナが不満げに手を挙げた。
「ねぇ、私の番は? 私もスノーさんと戦いたいんだけどな……」
少し寂しそうなルナの声に、スノーは悔しさを滲ませながらも苦笑するしかなかった。今の自分には、もう一度魔法を構築するだけの余力が残っていない。
スフィアはスノーの肩にそっと手を置き、お姉さんのように優しく微笑んだ。
「とりあえず、魔力が回復するまで頭を冷やして休みましょう。あなた、限界が来るまで全力で撃ち続けちゃうタイプでしょ?」
スノーは胸に去来する悔しさと、己の未熟さへの情けなさを必死に堪えながら、静かに、けれどしっかりと頷くのだった。




