第十一話
龍は切断された自らの巨腕から溢れる血を押さえつけながら、なおも眼下の刀を猛悪な眼差しで睨みつけていた。
だが――それに対峙する刀の身体は、すでに限界をとうに超えてふらふらと揺れ、今にも雪の上に倒れ伏しそうだった。
『……立っているのがやっとか、人間の雛め』
龍は試すように、残されたもう一方の腕を無慈悲に振り下ろした。
空気を引き裂く音。だが、刀の身体は――まるで死期を悟った枯れ葉が、凍てつく冬風にひらりと舞うかのように、その絶対的な一撃を最小限の動きで回避した。
『……なんだと?』
龍の赤い双眸が驚愕に細くなる。
憤怒とともに、二度、三度、四度、五度――嵐のような連撃が振り下ろされる。しかし、そのどれもが空を切った。刀は重力を無視した幽鬼のように、ひらひらと舞いながら全ての死線を見切って避け続けていたのだ。
龍は苛立ちを隠せず、地鳴りのような声を上げる。
『小僧……一体何をした……! 我が神速の猛撃を見切るなど……!』
刀は肺を焦がすような荒い息を吐き散らしながら、純白の大剣を歪んだ指で強く握りしめた。
「……目への集中じゃない……。自分の……防御の力を、全部、この右手と剣に集中させたんだ……! だから……お前の攻撃の風も、軌道も……全部、全部スローモーションに見える……!」
その声は恐怖でガチガチと震えていた。
かすりでもすれば即座に肉塊にされる。その絶対的な死の恐怖が、逆に刀の脳裏の“器”を完全に覚醒させ、その全感覚を神の領域へと研ぎ澄ませていた。
『小賢しいわ……! ならば、これで塵へと還れ!』
龍の喉の奥が、太陽のごとき白銀の輝きを帯び始める。
世界を焼き尽くすブレス。
刀の脳が、一瞬でその弾道を予測した。
(――上じゃない。横でも、後ろでもない。あいつの懐……真下だ!)
龍が大きく息を吸い込んだ、その刹那。
刀は爆発的な脚力で地を蹴り、地を滑る影となって龍の巨体の真下へと滑り込んだ。
「――おおおおおおおおおッッ!!」
渾身の力を込めた大剣の切っ先が、防備の薄い龍の喉元、逆鱗へ向かって、一直線に突き上がる。
ズガァァァッ――!!
硬質な白銀の鱗を内側から突き破り、大剣が深く肉体に埋まる。天を裂くような龍の絶叫が世界を震わせた。
龍は大きく目を見開き――そして、自らを討った少年を見つめ、静かに笑った。
『……見事……だ……』
その山のような巨体が、ゆっくりと、純白の雪の上へと崩れ落ちていった。
凄まじい雪煙が舞い上がり、やがて、世界に完全な静寂が訪れる。刀は大剣を杖代わりに床へ突き立て、辛うじてその場に膝をついた。
龍は雪原に倒れ込んだまま、ゆっくりと首を巡らせて刀を見上げた。
その神聖な瞳には、敗北の悔しさなどは微塵もなく――むしろ、役目を終えた安堵と、どこか父親のような優しさすら滲んでいた。
『……小さき器よ。お前は……ひどく弱い』
刀はムッとして眉を寄せる。「弱くねぇよ……! あんたを倒しただろ……!」
龍はフッと、労わるように笑った。
『……だが、その弱さを泥泥のまま抱え、それでも誰かのために立ち向かうその心は……何よりも強い。……だからこそ、お前に最期の頼みがある』
刀は思わず息を呑んだ。龍の声は、もうすぐ消えゆく命のものとは思えないほど、穏やかで透き通っていた。
『もう一人の……哀れな『器』を救ってやってくれ。あの少女は……他者を愛しすぎた、優しすぎる器だった。ゆえに心を壊され、いま、別の時間線で深い闇に飲まれている……』
(もう一人の、器……?)
その言葉が、なぜか刀の胸を強く締めつける。激しい痛みが走る。
龍は静かに続けた。
『……あの悪魔から……彼女を救い出せ。そのために……もっと強く、果てしなく強くなれ……小さき器よ』
その遺言を最後に、龍の巨体は粒子となって、闇に溶けるようにして静かに消え去っていった。
「スノー! おい、スノー、起きろ!」
刀は這うようにして城壁の瓦礫へと駆け寄り、横たわるスノーの肩を必死に揺らした。
スノーは、長い睫毛を震わせながらゆっくりと目を開けた。
「……ん……。刀……? 龍は……?」
刀はボロボロの身体のまま、これ以上ないほど得意げに胸を張ってみせた。
「へへん、俺がこの大剣で、バッチリ倒したぜ!」
スノーはふらつく身体を刀に支えられながら立ち上がり、門の前を見つめた。だが、そこには龍の死骸も、血の跡すら残されていない。
「……そう。あの偏屈な龍が、私たちを哀れんで、見逃してくれたのね」
刀はムッとして頬を膨らませた。
「違うって! 本当に俺が倒したんだよ! なぁ、信じろよ!」
「はいはい、そうね。凄いわね、刀」
くすくすと軽く流され、刀がさらに抗議しようとした、その瞬間だった。
――ドォォォォンッ!!
世界がひっくり返るような、凄まじい地鳴りが響き渡った。
天を見上げれば、鏡が割れるように空間がパキパキとひび割れ、漆黒の虚無が顔を覗かせている。周囲の古い建物が砂のように崩れ落ち、世界そのものが終わりを告げるように軋み、鳴動していた。
「な、なんだよこれ……! 一体何が起きてんだ!?」
刀が狼狽して叫ぶ中、スノーだけは、すべてを諦めたような静かな瞳で崩壊する世界を見つめていた。
「……この世界が……終わるのよ。龍という楔が消え、役割を終えた偽物の世界が、滅びていくの」
刀はハッとして、スノーの白く冷たい手を強く掴んだ。
「スノー! ぼさっとすんな、行くぞ!」
だが――スノーはその手を、悲しいほど拒絶の力を込めて振り払った。
「……行って、刀。あなただけでも、人間の世界へ」
刀は言葉を詰まらせる。「何言ってるんだよ! 二人で――」
「私は……この閉じられた世界の人間なの! この偽物の世界と一緒に……ここで滅びるべき存在なのよ!」
スノーは、胸に溜め込んでいた叫びを爆発させるように怒鳴った。
「……人間が、怖いのよ! 外の世界に行けば、私はまた『器』として利用され、迫害される……! 私を愛してくれたあの人も……もう、どこにもいないの! 誰も私を守ってくれない!」
そこまで一気に吐き出すと、スノーは自らの唇を血がにじむほど強く噛み締め、声を失った。
大粒の涙が静かにその白い頬を伝い、雪の上へと落ちていく。
その絶望の涙を見た瞬間、刀は、今度は拒絶すら許さないほどの圧倒的な力で、彼女の手を強引に、しかし壊れ物を扱うように優しく掴み取った。
「言っただろ。――俺は、スノーの“刀”だ」
少年の真っ直ぐな瞳が、少女の涙を捉える。
「神様が迫害しようが、人間が怖かろうが、世界の全ての存在がお前を拒むなら……俺がその全てから、お前を守り抜いてやる」
スノーが、息を呑んで驚いたように目を見開いた。
刀はそのまま彼女の小さな身体を自分の胸へと引き寄せ、完全に崩壊を始めた世界の中、光り輝く「門」の向こう側へと全力で走り出した。
「行くぞ、スノー! お前を……絶対に、死んでも守る!!」
背後で世界が完全に瓦解し、無へと帰していく中、二人は固く手を繋いだまま、未知なる外の世界へと繋がる光の門を、迷いなく駆け抜けていった。




