第十話
ざざざざ――、ざざざざ――。
音という音が凍りついた静寂の世界に、厚い雪を踏みしめる二人の足音だけが、不吉なほど明瞭に響き渡っていた。
刀は身の丈ほどもある純白の大剣を肩に担ぎ、寒さに身を震わせながら、道中もう何度目になるか分からない泣き言をこぼしていた。
「なぁスノー……まだなの? 本当にこの先に龍なんて奴がいるのかよ……」
スノーは返事をしなかった。ただひたすらに前だけを凝視し、毅然とした足取りで歩き続ける。その横顔には、いつもの少女のあどけなさはなく、何百年もの孤独を背負った「器」としての冷徹な決意が宿っていた。
ふいに、彼女の足がピタリと止まる。
スノーは細い指をすっと前方の闇へと向けた。
「……あれよ」
刀が促されて顔を上げた瞬間、その思考が完全にフリーズした。
そこにあったのは、王国の巨大な城門すらも遥かに凌駕する、天を突くほどの漆黒の“壁”。そしてその絶対的な門の前には、門と同等の質量を持った、神話の化身たる“龍”が横たわっていた。
陽光を浴びて妖しく輝く、硬質な白銀の鱗。
鼻裂から漏れ出る、触れたものすべてを即座に消滅させる凍てつく息。
ただそこに存在するだけで世界そのものを圧し潰さんとする、圧倒的な質量と魔力の暴風。
刀が恐怖で息を呑んだ、その刹那だった。
龍の巨大なまぶたが、ゆっくりと、しかし厳かに開かれた。
むくり、と山が動くような地鳴りとともに巨体が起き上がる。その血のように赤い双眸が眼下のスノーを捉えた瞬間、龍の裂けた口元が低く歪んだ。
『……白き器よ。久しぶりだな。……人間の数え方で、何百年ぶりか?』
脳髄に直接響くような重低音の波動に、刀の背筋がガチガチと凍りつく。
龍はさらに愉しげに口角を上げた。
『まだ諦めていないのか。……相変わらず、愚かで愛おしい執着だな』
スノーは臆することなく、一歩前に踏み出す。
「ええ、諦めてなんかいない。――今日はあなたを倒し、その門を開けにきたの」
龍は喉の奥で、クククと嘲笑を漏らした。
『かつて、我が鱗に傷一つつけられず、泣いて逃げ帰った小娘がよく言う……』
その言葉を聞いたスノーは、ふっと肩の力を抜くと、後ろの刀を振り返って悪戯っぽく微笑んでみせた。
「でも、今日は一味違うのよ。ねぇ、刀?」
話を振られた刀は、ガチガチと歯の根を鳴らし、震える声で懇願するように呟く。
「ス、スノーさん……あいつ、いくらなんでもデカすぎでは……? あれを斬るとか、正気の沙汰じゃねぇって……!」
「もう……本当に頼りないんだから」
スノーは呆れたように深いため息をつくと、すぐさま龍へと向き直り、その両手を冷酷にかざした。
「いくわよ、刀! 遅れないで!」
スノーが魔力を爆発させた瞬間、周囲の大気が悲鳴を上げて凍りついた。
大地の底から数条の巨大な氷柱が突き出し、猛烈な速度で龍の胸元へと一直線に放たれる。
スノーの全魔力が込められた巨大な氷柱は、空気を切り裂き、轟音を立てて龍の心臓部へと肉薄した。
だが、龍は身じろぎ一つせず、避ける素振りすら見せない。まるで、鬱陶しい羽虫を迎え撃つかのように、ただそこに傲然と立ち尽くしていた。
――パキンッ。
あまりにも軽い、虚しい音が雪原に響いた。
氷柱は龍の胸に触れた瞬間、その強固な白銀の鱗に阻まれ、火花のように細かな結晶となって砕け散ったのだ。傷一つ、ついていない。
「……やっぱり、まともに魔法を通すには硬すぎるわね」
スノーは忌々しげに舌打ちする。
『我が肉体は神の加護。小細工など通じぬわ』
龍がゆっくりと、その太い前肢を振り上げた。
ただそれだけの予備動作で、周囲の空間が歪み、空間を切り裂く暴虐的な衝撃波が、地面を激しく抉りながら津波のように迫り来る。
「っ……!」
スノーは寸前で身を翻し、舞い上がる雪煙の中を滑るようにして紙一重で回避した。
冷や汗を流しながら、慌てて刀の方へと視線を投げると――。
「うわああああああああっっ!?」
刀は大剣を抱えたまま、雪まみれになってゴロゴロと地面を転がり、不格好極まりない様子で衝撃波から必死に逃げ回っていた。
『おいおい……何だ、あの出来損ないの生ゴミは。それがお前の切り札か?』
龍が心底呆れたように鼻を鳴らす。
スノーは額に手を当て、我を忘れて叫んだ。
「もうっ……遊んでないで、さっさと特訓の成果を使いなさい、刀!」
「わ、わかってるって! クソがぁっ!」
刀は歯を食いしばって立ち上がり、純白の大剣を両手で握りしめた。脳裏の“器”を叩き起こし、全神経を「目」に集中させる。相手の動きの軌道を見切るために。
だが――。
「うっ……あぁぁっ……!」
龍の放つ圧倒的な魔力と殺気が濃密すぎて、目に意識を向けた瞬間、彼の視界は眩い白光によって激しく弾け飛んでしまった。光が強すぎて、網膜が焼けるように痛む。何も見えない。
その視界の空白を突くように、龍の山のような巨体が、すでに刀の目の前に迫っていた。
無慈悲に振り下ろされる、死の剛腕。
ギチギチと大地が悲鳴を上げる。
「刀っ――!!」
スノーが悲鳴のような声を上げ、地面に両手をついた。
奔流となって地を駆けた魔力が、龍の足元から巨大な氷の檻を一気に立ち上がらせ、その巨体を強固に閉じ込める。しかし。
『……ふん』
龍が鼻で笑い、軽くその巨躯を震わせた。それだけで、世界を凍らせるはずの氷壁はガラス細工のように粉々に粉砕された。
衝撃の余波。そして、続く龍の咆哮が、大気を激しく震動させて世界を揺らした。
「――ッ!!」
まともに衝撃波を浴びたスノーの小さな身体が宙に浮き、漆黒の壁へと無慈悲に叩きつけられた。
ドサリ、と鈍い音がして、雪煙の舞う地面にスノーが崩れ落ちる。ピクリとも動かない。
「スノー――ッ!!」
刀が叫ぶが、愛らしい少女の声が返ってくることはなかった。
龍はゆっくりと、その冷徹な視線を、残された唯一の獲物――刀へと向けた。
圧倒的な死の圧力を前に、刀の膝がガタガタと震え出す。恐怖が全身の細胞を支配しようとしていた。
刀は震える手で、大剣を力任せに雪の地面へと突き立てた。そして、自らの情けない心を叩き起こすように、赤くなるまで自分の頬を何度も、何度も強く引っ叩いた。
「……俺は……刀だ」
口内から血を吐き捨て、少年は龍の眼差しを真っ向から睨み返す。その瞳に、もはやガキ大将の怯えはなかった。
「お前を、その傲慢な首をぶった斬る――スノーの“刀”なんだよ!!」
龍は愉しげに、その凶悪な口角を吊り上げた。
『ほう……大口を叩くではないか、人間の雛風情が。ならば試してやろう。お前に――あの『白き器』の少女を守るだけの資格があるかどうかをな』
龍の細められた瞳から、世界を破滅させるほどの純粋な殺意が溢れ出し、雪原を満たしていく。
刀は大剣を強引に引き抜き、再び両手でしっかりと握り直した。全身の震えを、スノーを想う意志の力だけで完全に押し殺す。
「……余裕だっての。俺が……スノーを守る。絶対にだ」
吹き荒れる極北の雪原に、少年の固い誓いの声だけが、気高く響き渡った。
「……俺が……スノーを守るって……約束したんだ……!」
刀の口から漏れたのは、血を吐き出すかのような、掠れた喘鳴だった。
それでも彼は、折れそうになる両足に限界以上の力を込め、泥まみれの大地を踏み締めた。
身体はすでに限界を迎えている。
膝は生まれたての小鹿のように震え、握力を失いかけた両手の中、大剣の剣先は力なく地面に触れていた。今の刀にとっては、その自重を支えるだけで、意識が遠のきそうになるほどの激痛が走る。
それでも――倒れるわけにはいかなかった。
「なんだ……もう終わりか。失望したぞ、小僧」
対峙する巨龍は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
圧倒的な強者の余裕。傲慢に満ちたその眼差しとともに、山のような巨大な腕が天高く振り上げられる。
次の一撃で、すべてが終わる。
風が、空気が、恐怖に怯えるように悲鳴を上げた。
――ドゴォォォォンッ!!
振り下ろされた質量兵器が、大地を爆砕した。
凄まじい轟音が世界を揺らし、周囲に積もっていた白銀の雪煙が一気に舞い上がる。
視界は完全に遮られ、冷たい白濁の闇が辺りを包み込んだ。
龍は勝利を確信し、冷酷に吐き捨てる。
「所詮、この程度か……」
だが、その言葉が完全に消えぬうちに、龍は奇妙な違和感を覚えた。
立ち込める雪煙の隙間、激しく穿たれたクレーターの底に、不自然な“何か”が転がっている。
龍は不審に思い、細い縦長の瞳をさらに細めた。
「……ん?」
それは――見紛うはずもない、己の“腕”だった。
美しくも強固な白銀の鱗に覆われた、巨大な右腕が、無惨に地面に転がっていたのだ。
「……な、んだと……?」
信じがたい現実を拒絶するように、龍は自身の右肩へと視線を向けた。
そこにはあるはずの腕がなく、代わりに、どす黒い鮮血が間欠泉のように噴き出していた。
「グ、アアアアアアアアッ!?」
遅れてやってきた激痛と衝撃に、龍の咆哮が寒空を切り裂く。
その絶叫を正面から浴びながら、雪煙の向こうに、一人の少年が毅然と立っていた。
全身血まみれで、今にも糸が切れた人形のように崩れ落ちそうな身体。
しかし、その顔に絶望の色は微塵もなかった。少年は口の端を吊り上げ、最高に不敵な笑みを浮かべてみせたのだ。
「……へぇ……デカいと、痛覚も鈍いんだな」
刀の手にある大剣は、いつの間にか神々しいほどの光を纏っていた。
それはまるで、彼の命を燃やすような覚悟に呼応し、闇を照らす一筋の希望の刃と化したかのようだった。




