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「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ  作者: 曲尾 仁庵


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脱出

「どうされました? 何かありましたか?」


 こんこんと扉を叩き、兵士が外から声を掛けます。そうか、今はまだ、『ティーポットを落として割ってしまった音』としか思っていない。兵士たちを慌てさせて、中に入ろうとさせるには足りない。別の何か、ただの事故ではないと思わせる何か――


「あっ!」


 リアナは思わず、というふうを装って声を上げます。愚かな姫が逃げようとして誤ってティーポットを割った。そのとき、外から声を掛けられて思わずあげてしまった声。見つかってしまった、その焦りが伝わってくれれば――


「……あ?」


 扉越しに兵士の困惑の声が聞こえます。まだ、まだ足りない。私が逃げると信じさせられていない。どうする? 私は逃げようとして、ティーポットを落とし、外の兵士に気付かれた。だったら――逃げようとする私は、もう足音を気にしない!


――バタバタバタバタ!


 リアナはその場で強く足踏みをしました。扉の外の兵士の雰囲気が明らかに変わります。


「おい、開けるぞ!」


 ガチャガチャと金属の擦れる音が聞こえます。焦っているのでしょうか、鍵はなかなか開きません。ほっとして――リアナはハッと手許の紐に目を落としました。テーブルクロスがまだ床に広がったままだ!

 リアナはくるくると紐を巻き取ります。鍵がガチャガチャと鳴っています。テーブルクロスが床を滑る音が聞こえます。「早くしろ!」「やってる!」と兵士が怒鳴っています。テーブルクロスの端がリアナの手に触れ、ガチャン、と音を立てて鍵が開き、リアナがテーブルクロスを力いっぱい引っ張り――


 バン、と音を立てて扉が勢いよく開きました。リアナの鼻先を扉の風圧が掠めます。兵士たちは部屋に踏み込み、


「……ティーポット?」


 最初に入った兵士が砕けたティーポットに目を落としました。後から入った兵士が鋭く声を上げます。


「窓が開いてるぞ!」


 後から入った兵士が窓に駆け寄ります。先に入った兵士は扉の傍から動かず、思案げに腕を組んでいます。吐息さえ触れられそうな距離の中で、リアナは胸に手を当てて暴れる鼓動を抑えていました。


「逃げたってか、チクショウ!」


 兵士が苛立ち混じりに窓枠を叩きます。リアナがビクリと身体を震わせました。リアナの足元には、テーブルクロスの端が少しだけ覗いています。


「こんな狭い窓から逃げ出せるもんかね?」

「十歳のガキならできるんだろうよ、クソッタレ!」


 窓から身を乗り出し、見える範囲にいないことを確認して、兵士は振り返ります。彼の視線の先には、もう一人の兵士と、開いた扉があります。


「追うぞ! 逃がしたことがバレたら首が飛ぶ!」


 兵士は部屋を出ようと駆け出します。しかしもう一人の兵士は、首を傾げて眉をひそめています。


「なんだ、何かあんのか?」

「んー、なーんか、違和感っつーか」


 二人の兵士が扉の前に並んでいます。間近に聞こえる兵士の声に、リアナは固く目を瞑りました。


「ティーポットが割れてるのにティーカップが割れてない」

「あ、ほんとだ」

「どうやったらそうなる?」

「知らねぇよ。奇跡だろ、なんかの」


 苛立った兵士の声と、マイペースな兵士の声が交互に響きます。


「すごいどうでもいい奇跡だなそれ」

「どうでもよくない奇跡なんて見たことねぇよ」

「言われてみればそうかも」

「だろ?」


 早く、早く私を追いかけて、出て行って。目を閉じたまま、リアナは心で祈ります。


「あ、わかった。テーブルクロスがない」


 マイペースな兵士の言葉に、リアナの心臓が大きく跳ねます。テーブルクロスは足元にあり、扉の下に目を落とせば、見えているのです。探そうと思って部屋を見れば、すぐに見つかる――


「どうでもいいわ。洗ってんだろ、おこちゃまはすぐこぼすからな」

「ああ、なるほど」

「とにかく行くぞ! 俺たちだけであのガキを見つけんだよ!」

「応援は呼ばないのか?」

「呼べるか! バレたら首が飛ぶっつってんだろうが!」


 バタバタと足音を立てて、兵士たちが部屋を出ていきます。足音は遠ざかり、聞こえなくなって、さらにしばらくの時間が経って、


――はぁぁぁぁぁーーーーー


 リアナは壁に背を預けて、ずるずると崩れ落ちました。




 あえぐように空気をむさぼり、リアナは心臓が落ち着くのをじっと待ちます。兵士たちは応援を呼ばないと言っていました。ということは、リアナが逃げたことはしばらくは他の兵士に知られないはずです。その知られないはずの時間に、どうにかしてルシアン皇子の許へとたどり着かねばなりません。

 息をなだめ、まとわりつく嫌な汗を拭って、リアナは立ち上がりました。部屋を出ることは目的ではありません。ルシアン皇子に会い、スールの許へと連れていく。その一歩目に過ぎないのです。リアナは扉の外の様子を窺います。他の兵士の気配はありません。きっと、十歳の小娘には兵士二人で充分と思われているのでしょう。リアナは緊張に強張った顔で部屋から外に足を踏み出し――


「おーい、交代――」


 どこか間延びした声を上げながら廊下を曲がってきた兵士と、目が合いました。


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