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「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ  作者: 曲尾 仁庵


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動く

 リアナは立ち上がり、部屋を見渡します。窓の下に置く足場――椅子を使えば充分でしょう。わざわざ別の場所から足場を持ってきたら、「なぜそれを足場にしたのか」を考えてしまうかもしれません。リアナは椅子を持ち上げ、慎重に窓の下に運びます。まだ音を立ててはいけません。今、踏み込まれたら終わりです。

 床に椅子を置く音さえ立てないように、ゆっくりと椅子を下ろし、リアナは大きく息を吐きました。全身から冷たい汗が噴き出します。身体の普段は気にもしない場所に痛みが走りました。全身のこわばりを少しずつほぐし、リアナは床に座り込みます。


(ただ椅子を運ぶだけが、こんなに大変だなんて)


 音を立ててはいけない、気付かれてはいけない、その緊張が身体を固くして、思うように動くことができません。今さら身体が震えてきました。うずくまり、震えを抑えます。震えてる場合じゃない。早く、次へ――

 揺れる膝に手を当て、リアナはようやく立ち上がりました。次は窓――いえ、今、窓を開ければ外から異変に気付かれるかもしれません。窓を開けるのは最後、ならば次は、ティーカップをどう落とすか。


(ティーカップを落としてから兵士が中に入ってくるまでの時間は、どのくらいだろう?)


 窓を開けた後、素早くティーカップを割り、どこかに隠れる。隠れる前に入って来られたら、そこで終わりです。できれば音を立てたときにはもう隠れていたい。だったら、隠れた場所からティーカップを割る必要がある――リアナはふと、テーブルに目を留めました。テーブルには白いテーブルクロスが敷いてあります。


(これを引っ張れば、ティーカップを床に落とせる?)


 事前に試してみることはできません。テーブルから落ちたティーカップが本当に割れるのか、期待したほどの音が鳴るのかも。リアナはゴクリと唾を飲みます。


(でも、他に方法はない)


 時間を掛ければもっといい方法があるかもしれない。でも、時間が惜しい。今必要なのは、決断すること。リアナはうなずくと、今度はクローゼットに向かいました。その中の右端に、三年前、彼女が故郷から持ってきたドレスがありました。今はもう小さくて入らないそのドレスを手に取り、ぎゅっと抱きしめて、リアナはつぶやきます。


「私を、助けてね」


 少しの間ドレスを抱き、そしてリアナはその袖を裂き、細長い紐を作りました。その端をテーブルクロスに結び、引っ張ってティーカップを落とすのです。紐を作り終え、リアナは再び部屋を見渡しました。後は、どこに隠れるか、です。

 テーブルクロスを紐で引くなら、紐が届く場所でなければいけません。それに、部屋に入ってきたときに紐付きのテーブルクロスが落ちていたら、兵士は紐の繋がる先が気になるでしょう。兵士が入ってくるまでの間にテーブルクロスを手元まで引き寄せる必要がある――なら、身動きできない狭い場所には隠れられない。クローゼットもベッドの下も、よい隠れ場所とは言えません。


(どこがいい? 気付かれない場所、誰もここにいると思わない場所――)


 テーブルの下、家具の陰、どこもすぐに目に入ってしまう場所です。リアナはせわしなく部屋のあちこちに視線を向けます。広くはない部屋です。目の届かない場所などそうはありません。


(この扉の位置から、見えない場所――どこにあるの?)


 リアナは扉を振り返り、必死に思い出します。自分が部屋に戻ってきたとき、絶対に見えない場所――


(扉の、陰?)


 この部屋の扉は内側に開きます。開いた扉の陰になる位置にいれば、扉を開けて入ってきた兵士には、見つからないのではないでしょうか?

 リアナは冷たい指先を温めるように手を握ります。扉の影は、扉が閉じてしまえば、リアナを隠してはくれません。リアナが部屋を出るためには、兵士は扉を開け、閉めないままに部屋の様子を見て、窓から逃げたと誤解し、すぐに部屋を出て行ってもらわねばなりません。部屋に入った後に扉を閉めたら終わり。部屋の中をじっくりと探されたら終わり。扉が開いたままだとしても、扉の下から足は見えてしまうのですから。リアナは息を大きく吸い、息を止めます。


(これ以上の場所は、ない!)


 息を吐き出し、テーブルクロスに結わえた紐を扉の陰までの長さに調節すると、リアナは窓へと向かいます。窓を開ければ、すぐに音を立てなければいけません。窓辺に立ち、窓枠に手を掛けて、今さら震える手に、リアナは苦笑いを浮かべました。


(怖くない、なんて嘘をついてもダメね。私は、怖い。逃げ出してしまいたい。けれど――)


 リアナは窓枠を掴む手に強く力を込めます。


(今は、言うことを聞け、私!)


 リアナは素早く窓を開け放ちました。外から風が吹き込み、彼女の髪を揺らせました。




 扉の真横に駆け寄り、リアナは床に置いていた紐の端を握ります。もう後戻りはできない。これを引っ張れば、結果はどうあれ事態は動き出します。口がひどく乾き、顔からは血の気が引きます。でも、何もしないわけには、いかない。

 テーブルクロスに結ばれた紐がピンと張ります。心臓が痛いほどに跳ねています。呼吸の音を必死に抑え込み――リアナは紐を一気に引き寄せました!

 ティーカップがテーブルから落ちていく様子が、やけにゆっくりと感じられます。世界の全てが何かに絡めとられたかのように、のろのろと動いています。ティーカップはくるくると回転しながら落下し――


――ことん


 小さく床を打って、奇跡のように無事に着地しました。


(割れ、ない――!?)


 リアナが大きく目を見開きます。蒼白な顔で彼女が床のティーカップを凝視した、次の瞬間――


――ガシャァァァーーーン!!


 落下したティーポットが想像の何倍もの音を立てて、粉々に砕け散りました。


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