故郷へ、新たなる地へ
レダニアの西部、とある小さな港町に、旅姿の一団の姿がありました。大柄な老人と数人の男女、そして子供が二人――大人と子供の端境にある少年と快活そうな瞳の少女は、やや緊張の面持ちで船を見上げます。船から桟橋に掛けられた渡り板を前に、老人は確かめるように少年に告げました。
「本当によろしいのですな? 行けばすぐには戻れぬ」
粗末な小屋の、寝藁を敷き詰めたベッドの上でリアナは目覚めました。ぼんやりとした意識で見上げた天井に見覚えのない変な形のシミがあります。
「……天井がある」
当たり前と言えば当たり前のことをつぶやき、リアナは天井のシミを見つめます。あのシミは犬に似てる。あっちは鳥、それから――これは人間の少年?
「ルシ、アン……?」
名を呼ぶと同時に、リアナの意識が輪郭を取り戻します。敵に追い詰められ、剣がギラリと光を反射し、背に少年をかばって――
「ルシアン!」
そう叫んでリアナは勢いよく上半身を起こします。額に乗せていた濡れ布が落ち、椅子に座ってウトウトしていたスールがハッと目を覚ましました。身体に稲妻のような痛みが走り、リアナは身体を屈めます。全身を襲う筋肉痛に涙を浮かべ、リアナは奥歯を噛み締めました。
「姫様!」
スールが安堵と心配の混ざった声を上げ、リアナの背に手を当てます。苦痛の波が引くのを目を閉じて待ち、リアナは部屋を見回しました。隣のベッドに、見覚えのある美しい少年が横たわっています。
「ルシアン!」
再び叫び、リアナはスールに気付きもせず転がるようにベッドを降りてルシアンの傍に駆け寄ります。スールがリアナの背に手を伸ばし、何も掴めずに肩を落としました。ルシアンが苦しげに呻き、ゆっくりと目を開けました。
「リアナ、様……?」
「ルシアン!」
ルシアンが手を伸ばします。リアナは彼の手を取り、両手で包みました。
「……よかった。リアナ様――よかった」
ルシアンは泣いていました。リアナも泣いています。何度も「よかった」と繰り返すルシアンの手を、リアナは強く握りました。スールが両腕を組み、やや引きつった微笑みで二人を見守っていました。
涙が止まるのを見計らい、繋いだままの二人の手を凝視しながら、スールはわざとらしい咳ばらいをしました。ルシアンは上半身を起こそうとして、辛そうな呻き声を上げます。リアナが素早く背に手を回し、ゆっくりとルシアンの身体を起こしました。じゃっかん苛立った様子で一瞬だけ眉を寄せ、スールはすぐに冷静さを装いました。ルシアンはリアナに支えられながらスールに頭を下げました。
「ご助力に感謝いたします、スール将軍。あなたは私の命の恩人です」
リアナもまた、居住まいを正し、スールをまっすぐに見つめます。
「私からも感謝を。爺――いえ、スール将軍。ルシアンを助けてくれて、ありがとう」
思わず何か言おうとした言葉を飲み込み、スールは気持ちを落ち着けるように息を吐くと、小さく首を横に振りました。
「ルシアン皇子はリアナ殿下の婚約者なれば、お助けするは当然のこと。過度な感謝は不要に願いまする」
どこか他人行儀な返答にリアナは不満げな表情を浮かべます。何か言おうとしたリアナをルシアンは制止します。ルシアンの顔をじっと見つめ、スールはひとつため息を吐きました。
「……建前じみた言葉に意味はありませんな。ルシアン皇子、聡明な貴方ならお分かりのはず。これから貴方がどうなるか。我らが貴方をどう使おうとしているのか」
不穏な言葉遣いにリアナが顔をしかめます。ルシアンは静かにうなずきました。
「クランフォートは私を皇帝にするのですね」
え? とリアナはルシアンの横顔を見つめます。スールはうなずきを返しました。
「レダニアが他国への侵略を開始して十年余り。征服され、あるいは属国となった者たちの鬱屈は限界に達しつつある。しかし各々が拳を振り上げたところで潰されるだけ。ゆえに我らは立たねばならぬのです。我らの自由と尊厳のために」
ルシアンは冷たい微笑を浮かべます。
「そして私は傀儡の皇帝となり、クランフォート王は外戚として権勢を振るう」
「否定はしませぬ。じゃが――」
スールは試すようにルシアンを鋭い視線で射抜きました。
「――それを許すかどうかは殿下、貴方次第じゃ」
ルシアンは視線をわずかに上げ、息を吐きます。リアナがルシアンの手に手を重ねました。ルシアンはリアナに微笑みかけ、再びスールを見据えました。
「今の帝国の在り方が正しいと、私は思っておりません。人々を徒に苦しめ、世界を疲弊させている。クランフォートが世に正道を取り戻さんと立つならば、私は皆さまと共に在りましょう」
スールはわずかに目を伏せます。
「……険しい道じゃ。あるいはここで命を絶つほうが苦しまずにすむかもしれぬ」
「いいえ、それはありえない」
きっぱりと断言するルシアンに、スールは不可解そうに眉を寄せました。
「ありえない?」
うなずき、ルシアンは揺るがぬ決意の瞳をスールに向けました。
「リアナ様が言ってくださいました。私は生きるのだと。だから私が自ら命を絶つことはありません」
リアナは真剣な表情で言葉を継ぎます。
「どんな困難も越えていきます。私たちは」
軽く目を見張り、スールはリアナを見つめます。そして大きく息を吐くと、床に片膝をつき、頭を下げました。
「これより後はこのスール・ラムゼンが両殿下の剣となり、盾となってお仕えいたす所存。存分にお使いあれ。必ずやご期待に応えて見せますゆえ」
ルシアンは微笑んで答えます。
「天下に名高い不敗の将軍の忠誠を得られることを嬉しく思います」
急に始まった白々しいやり取りに口を尖らせ、リアナは強引に右手でスールの手を取ると、左手でルシアンの手を引っ張って重ねました。そして自分の手を上に重ね、二人をにらみつけました。
「意地悪なことを言わないで。私たちはずっと一緒です」
ルシアンとスールは顔を見合わせ、目を瞬かせると、吹き出すように笑います。「どうして笑うの?」とリアナはますます頬を膨らませました。
潮風が肌を撫で、遠くで海鳥が鳴いています。「もうすぐ出港するぞ」と船員が乗船を急かしました。少年――ルシアンははっきりと答えます。
「クランフォートと共に。それが私の道です」
スールは大きくうなずき、
「結構。では、参りましょう」
船の渡し板を登っていきます。ルシアンは手を差し出し、リアナがその手を取りました。二人は揃って足を踏み出します。この船の行き先はクランフォート王国。リアナの故郷であり、ルシアンにとって新しい土地――新しい戦いの地です。
船が帆を張り、ゆっくりと進み始めます。ルシアンは離れゆくレダニアを振り返りました。その瞳には寂しさでも不安でもない、複雑な感情が浮かびます。しばらく陸を見つめた後、ルシアンは舳先に身体を向けました。そこには前だけを見つめるリアナの姿がありました。
「きっと、大丈夫」
小さくつぶやき、少し笑って、ルシアンは潮風になびくリアナの髪をまぶしく見つめました。
かくして幼い獅子は老虎の庇護を得て森に潜む。世は混迷の度を増し、圧殺された悲鳴が鉄鍋の蓋を揺らしている。世界が、戦乱の予兆に怯えていた――




