約束
「わた、し、は……」
止むことなく溢れる自身の涙が信じられぬように、ルシアンは呆然とつぶやきました。泣き方も、泣き止み方も、きっと知らないのです。リアナは少し下がって、ルシアンの手を取りました。少しずつ自分の気持ちを知って、ルシアンの顔が徐々に幼さを取り戻していきます。うつむいて、固く目を閉じ、しゃくりあげ――不器用に、少しずつ、少しずつ。リアナはルシアンを静かに見つめています。どこかでリーンと虫の声が聞こえました。ルシアンは声を上げて泣きませんでした。音のない嗚咽が、夜の森に広がっていきました。
月が空を渡り、その傾きを増していきます。森の闇が蒼く濃く降り積もります。きっと夜明けが近いのでしょう。星々の騒がしい光が薄くぼやけ始めていました。
ようやく止まった涙を手で拭い、ルシアンはどこか所在なさそうに目を落としました。
「……情けないところを、お見せして」
リアナはゆっくりと首を横に振ります。
「涙は、恥ずべきことではありません」
「それは――いえ、そう、ですね」
ルシアンは小さくうなずきました。リアナは真剣な表情を作ります。
「とても可愛らしくて、よかったと思います」
うっ、と小さくうめき、ルシアンは恨めしげにリアナをにらみます。
「……意地悪です、リアナ様」
「まあ。そんなこと」
リアナは大げさに驚いてみせます。ルシアンのじとっとした視線とリアナの白々しい視線がぶつかります。二人はしばらく見つめ合い――同時に吹き出しました。ひとしきり笑って、ルシアンは大きく息を吐きました。リアナはおかしそうに目尻を拭います。
「……一つだけ」
ルシアンは静かに口を開きます。リアナは顔を上げました。
「約束してください。私たちのどちらかが、命を落とすことになったら――」
リアナは顔を険しくします。ルシアンは軽く手を挙げて制し、言葉を続けました。
「――私たちは必ず、相手を見捨てること。共に死ぬことも、犠牲になることも、決してしないと」
ルシアンは透明にリアナを見据えました。責務でなく、自己否定でなく、生きることを諦めない。自分自身を諦めてはならない。その共犯者になれと、彼の瞳は言っていました。リアナはルシアンをまっすぐに見つめ返し、
「はい」
はっきりとそう答えました。
「立てますか?」
リアナはルシアンに尋ねます。ルシアンは素直に首を振りました。夜の闇は少しずつ薄らいで、ルシアンの様子が少しだけリアナにも見えるようになっています。ルシアンのズボンの左足が大きく裂け、赤黒く傷口が覗いていました。血は止まっていますが、動けば再び出血するかもしれません。まずは傷を塞がなければ――リアナは何か使えるものがないか、服のポケットを探りました。
「これは――」
指先に柔らかいものが触れ、リアナはポケットからそれを引っ張り出します。帯状の細長いそれは、リアナが閉じ込められていた部屋から逃げ出す時に使った、クランフォートから持ってきたドレスを裂いて作った布でした。何となく捨てがたく持っていて、森で服を着替えたときに無意識にポケットに入れていたのでしょう。これなら傷口を縛るのに使えそうです。リアナは布をぎゅっと胸に抱くと、水筒を取り出し、傷口を洗います。ルシアンの顔が苦痛にゆがみ、声を立てぬよう口を引き結びました。布を広げ、強めに圧迫しながら傷口に巻き、固く結んで、リアナは小さく息を吐きました。
「……慣れていらっしゃるのですね」
意外そうにルシアンが言います。どこか言い訳のように、やや早口にリアナは答えました。
「爺――スールが教えてくれたのです。自分の怪我くらいは自分で手当てしろと。私は、その、よく森で怪我をしていたから」
「よく怪我を?」
貴人の女性が『よく怪我をする』という状況が想像できなかったのか、ルシアンは不可解そうに問い返します。リアナはうわずった声でまくしたてました。
「昔、うんと子供のころの話です。ほら、子供は森で走りますでしょう? 走れば転びますし、藪に突っ込みますし、木に登れば落ちますし、崖は踏み外すでしょう?」
「そ、そう、なの、ですか?」
「そうなのです! きっとルシアン様も、クランフォートにいらっしゃればきっと、分かります!」
必死な様子のリアナに小さく笑って、ルシアン皇子は視線を上げて遠くを見つめます。
「……見てみたいな。貴女の故郷を」
「私がご案内いたします。素敵なところがたくさんありますから」
リアナはそう言うと、ルシアンの右の脇に腕を差し込みました。ルシアンは「待って」とリアナを制すと、腕と右足を使って近くの木の根元まで這いずり、背を預けました。額にじっとりと汗が浮かび、息が乱れます。リアナは慌てて傍に寄りました。
「……木に背中を押し付けながら、上に引っ張ってもらえれば立てます。手伝っていただけますか?」
ルシアンのお願いに「もちろん」と答え、リアナは右腕をルシアンの左腕に絡めます。ルシアンが息を止めて木の幹を背で押すように右足を踏ん張り、同時にリアナが腕を引っ張り上げました。木の肌にルシアンの服が擦れてざりざりと音を立てます。何とか立ち上がり、ルシアンは深く息を吐きました。ルシアンの左腕を自分の肩に回し、リアナは彼を支えます。
「行きましょう」
ルシアンがうなずきを返し、二人は前を見つめます。どれほどの高さを滑落したのか、どこを進めばスールのいる丘の上に辿り着くことができるのか――不安を飲み込み、二人は一歩、前に踏み出し――
――カサ
落ち葉を踏む小さな音が聞こえ、二人は身体を強張らせました。




