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「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ  作者: 曲尾 仁庵


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――カサ


 再び小さな音が聞こえます。わずかも音を立てぬよう動きを止め、リアナは目だけで周囲を窺いました。敵? にしては人数が少ないように思えます。それに、兵が草を踏む音だとしたら小さすぎる。何かもっと、体重の軽い――


――ガサッ!


 不意に大きな音が響き、リアナは思わず音の聞こえた方向を振り返りました。ルシアンも引っ張られるようにそちらを向き――目を丸くします。リアナが思わず吹き出しました。そこには、つぶらな瞳でリアナたちを見る仔鹿が、藪から首を覗かせていました。仔鹿は好奇心いっぱいにリアナたちを見て、何をしてるの? と言いたげに首を傾げました。リアナは気が抜けたように笑います。ルシアンが大きく息を吐きました。


――ピューイ


 頭上から笛のような鳴き声が聞こえます。仔鹿が首をひねって斜面の上を見上げます。もう一度鳴き声が聞こえ、仔鹿は律儀に「ピィ」とリアナたちに挨拶をして、身を翻し軽やかに斜面を登っていきます。きっと母鹿の許に戻るのでしょう。小さな大冒険の顛末を母鹿に、自慢げに報告するのかもしれない――リアナとルシアンは顔を見合わせて笑いました。

 ひとしきり笑って、リアナは気持ちを切り替えるように息を吐くと、白み始めた森を見据えます。ここから丘の上までたどり着かねばなりません。さっき止まった足をもう一度踏み出そうとして、ふとリアナは斜面に目を遣ります。そこには仔鹿の足跡があるはずです。仔鹿は斜面を越えていきました。仔鹿の足跡を追えば、リアナたちも、あるいは――


「追いましょう」


 リアナの逡巡を払うようにルシアンが言いました。斜面を登ればそれだけ早くスールと合流できる。それに、敵は子供二人が斜面を登るとは考えない。追手の裏をかく最速の道が、仔鹿の足跡なのです。リアナはうなずくと、今度こそ大きく前に一歩を踏み出しました。




「クランフォートは国の半分が森に覆われた、森の国です」


 ルシアンを支えながら、滑らぬように慎重に、リアナは少しずつ斜面を登っていきます。


「気候も穏やかで、とても過ごしやすい土地なのですよ。きっと気に入ると思います」

「それは、楽しみです」


 仔鹿の足跡は斜面の脆くなった場所を巧みに避けて上へと続いています。踏み外せば再び奈落――リアナは顔に滲む冷たい汗を拭いました。


「都の北には大きな湖があって、それはきれいなのですよ」

「大きなって、どれくらい?」

「……とっても?」

「とっても?」

「ええ、とっても!」


 踏み出した足が小石を蹴り、小石はカツンカツンと音を立てて斜面を転がり落ちていきます。斜面の岩に大きく跳ねて、小石は見えなくなりました。


「西側は海に面して、お魚がとても美味しいの」

「うらやましい。レダニアの料理は皆、軍の、糧食のようで――」


 闇が少しずつ、削られるように払われ、早朝の冷たく湿った空気が流れ込んできます。夜から主役の座を奪うように朝靄が漂い始めました。


「西は海の恵み、東は森の恵み。クランフォートは海と大地の両方から祝福された土地です」

「……それは、すばら、しい」


 朝靄が濃さを増し、見通しを遮ります。リアナたちは踏みしめるように一歩ずつ進み、ついに斜面を登り切りました。我知らずルシアンが息を吐きます。肩を支えるリアナに伝わる体温は熱く、呼吸は浅く早くなっていました。リアナはそっと視線を落とします。ルシアンの左足の傷を縛る布にじわりと赤が滲んでいました。

 リアナは周囲を見渡します。敵兵の姿も、気配も、どこにもありません。やはり敵はリアナたちが斜面を登ってくるなんて思いもしなかったのです。さあ、とリアナは正面を見据えます。やっと元の場所に戻ってきました。あとは丘に辿り着くだけ。それだけです。


「もう少しです。もう少し」

「……ええ、もう、少し――」


 リアナの肩にルシアンの重さがのしかかります。ふっと息を止め、勢いを付けてリアナは足を踏み出しました。


「クランフォートの四季は、美しいと有名ですのよ。春は様々なお花が咲いて、とても鮮やか」


 朝靄はますます濃く、森は白に滲んでいきます。


「夏でも森の中は涼しいの。小川に足を浸せば気持ちがいいわ」

「……おてん、ば」

「そんなこと」


 とても、静かです。


「秋は、一斉に山の木々が紅く色づいて」


 リアナの草を踏む音がやけに響きます。


「冬は、雪が、積もって、一面、まっしろ――」


 どこに向かっているのか、


「雪の、降った、夜は」


 本当に前に進んでいるのか、


「暖炉を、囲んで、お母様が、昔話を」


 だいじょうぶ。


「悪い竜が、お姫様を、食べて」


 だいじょうぶ。爺が必ず助けてくれる。


「旅の、王子様、が、悪い、竜を、退治」


 だいじょうぶ。ホウリは必ず追いつくって言った。


「そうしてね、最後は、皆、幸せに、暮らしました、って」


 だいじょうぶ。

 だいじょうぶ。

 もうすぐ丘に着く。

 そこには爺がいて、

 ホウリがすぐに追いついて、

 よくやったって褒めてくれて、

 きちんと手当てをして、

 だから、

 だいじょうぶ。

 だいじょうぶ、なのに――



――どうして、私は泣いているの?



 視界が滲みます。か細い吐息が聞こえます。リアナは奥歯を強く噛みました。ルシアンが掠れた小さな声でリアナを呼びます。リアナは首を横に振りました。ルシアンはもう一度リアナを呼びます。リアナは首を横に振りました。ルシアンは呻くように言葉を絞り出しました。


「……や、く、そく――」

「いいえ、まだです! まだ!」


 訪れるべき未来を拒んで、リアナは足を前に出し続けます。わずかも進まぬ一歩を積み、這うような一歩を重ねて――


――不意に、視界が開けました。




 丘の上には、一本の大きな楡の木がぽつんと立っていました。幹はねじくれ、まるで腰の曲がった老婆のようでした。森の中にあってこれほど確かな目印は他にありません。ここがスールの待つ場所に間違いありません。

 リアナは力を振り絞って足を速めます。丘に人影は見えません。見通しが良いこの場所は、目印には最適でも、追われるリアナたちが待ち合わせをするには向きません。おそらくスールはどこかに身を隠し、リアナたちを待っているのです。だから、リアナたちが来たことを、分かりやすく知らせなければなりません。リアナは丘を登り、老婆の木の根元に辿り着きます。ルシアンの背を木の幹に預け、リアナは周囲を見渡します。きっと、この木を見張る位置にスールはいる。きっと、いるのです。


「その木は、『魔女の木』って言われてるそうだ」


 聞き覚えのある声が聞こえ、リアナは声の聞こえた方向を振り返ります。朝日を背に、一人の男が近付いてくるのが見えました。リアナはまぶしさに目を細めます。男はゆっくりと近付きながら、


「魔女が人間に与えるのは――」


 すらりと剣を抜きます。リアナがハッと息を飲みました。朝日が照らす男の顔は、


「――いつだって、絶望だ」


 以前にリアナたちを捕らえた、敵の隊長でした。


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