「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ
――リーン、リーン
耳元で「起きなさい」と言うように、ベルに似た音が聞こえ、リアナはゆっくりと目を開けました。ぼんやりとした視界に映るのは闇――いえ、頭上からかすかに降り注ぐ月光が青く照らす土と草です。落ち葉が腐ったような臭いがリアナの意識を掴んで無理やりに引き戻します。そうだ、私は殿下と一緒に落ちて……殿下? ルシアン殿下は!?
「――っ!」
起き上がろうと身体を動かした瞬間、全身に痛みが走り、リアナは固く目を閉じました。耳元にいた小さな虫がぴょんと飛んで草むらに消えていきました。手足や顔はひりひりと痛み、肩や背中にはじんと重い痛みが居座っています。しばらく痛みに耐え、リアナは小さく息を吐くと、目を開き、痛みを刺激しないように慎重に身を起こしました。見通しの利かない夜闇の中、枝葉の隙間からこぼれるか細い光を頼りに、リアナはルシアン皇子の姿を探しました。
少しずつ闇に目が慣れ、木や草の輪郭が分かるようになると、リアナの視界が、空に向かって伸びる草木とは異なる、地面に横たわる塊を捉えました。リアナは息を飲み、勢いよく立ち上がります。暴れる痛みを奥歯で嚙み殺し、もつれる足をにらみつけ、半ば転がるようにリアナはその塊に駆け寄ります。ルシアン皇子は仰向けに倒れていました。
「ルシアン殿下!」
傍らに膝をつき、ルシアン皇子の胸に手を当て、リアナは泣きそうな声で叫びました。鉄錆びた臭いが鼻を突きます。リアナの顔から一気に血の気が引きました。
「殿下!」
リアナがもう一度叫びます。ルシアン皇子の胸に当てた手から振動が伝わってきます。でもそれが皇子の鼓動なのか、リアナの震えなのか、わかりません。皇子の胸に当てた手から温もりが伝わってきます。でもそれが、失われつつあるものなのか、わかりません。目に滲む水を乱暴に手で拭って、リアナは皇子の顔に耳を寄せます。しんとした森の静寂の中――かすかな吐息が耳に届きました。
――生きてる
皇子の左手を両手で包み、リアナは身を屈めて額を皇子の胸に付けました。
小さなうめき声を上げ、ルシアン皇子がわずかに瞼を開きます。リアナは手を握ったままルシアン皇子の顔を上から覗き込みました。ルシアン皇子の顔が安堵を形作ります。
「……リアナ様。無事で、よかった」
皇子の小さな、かすれた声に、リアナは強く首を横に振りました。
「ごめんなさい。私の、せいで――」
リアナの両眼からぽろぽろと涙がこぼれます。ルシアン皇子は右腕をゆっくりと持ち上げ、リアナの涙を拭いました。
「貴女の、せいではない」
リアナは再び首を横に振ります。皇子は右腕を降ろし、目を閉じて息を吐きました。リアナは握った手に力を込めます。冷たく湿った森の空気が二人の沈黙を包みました。
「……あのとき――」
ルシアン皇子は目を閉じたまま、つぶやくように口を開きます。
「ここに転落した、あのとき、私は貴女の手を離しました。けれど貴女は、私の手を掴んだ。それは、なぜですか?」
「え?」
思いもよらぬ問いを受け、リアナは目を丸くしてルシアン皇子の顔を見つめます。ルシアン皇子はリアナを見ることなく、表情も仮面のように感情を伝えてはくれませんでした。なぜ? なぜ手を掴んだ? 問われて初めてリアナは理由を探します。
「私、は――」
そう言って、リアナは言葉に詰まりました。自分の中に、はっきりとした理由が見つかりません。あのとき、皇子の手が離れたとき、話してはいけないと思った。分かるのはそれだけでした。でも、どうして『離してはいけない』と思ったのか――怖かった? 寂しかった? 同情した? 一緒にいたかった? どれもあのときの気持ちを表す言葉ではありませんでした。何も言えずにいるリアナの沈黙を聞き、ルシアン皇子は小さく笑うと、
「……私は」
何か重いものを吐き出すように口を開きます。答えられなかった、答えなければならなかった、決定的な過ちを自覚してリアナの肩が震えます。ルシアン皇子は目を閉じたまま言葉を続けました。
「貴女を、守らねばならないと、思っていました。私が、貴女を守らねばと。手を繋いで、決して離れぬようにと」
痛みに顔をしかめ、ルシアン皇子の声が途切れます。しかし皇子は、それが義務であるかのようにすぐに話を続けました。
「……でも、本当に貴女を守るというなら、私は貴女と離れなければならなかった。狙われているのは私のほうだ。私と共にいれば危険に晒される。当たり前のことだ。そんな当たり前のことに、私は気付かなかった。いえ、気付かない振りをしていた」
冷たい風が吹き、森がかすかに騒めきます。皇子の罪を照らすように月光が森に降り注ぎます。
「守ろうとしていたのではなかった。『嫌ってなどいない』と、真剣な顔で言ってくれた貴女に、私は縋った。貴女の強さに救いを求めた。貴女の手の温もりに支えられた。独りで立てぬ自分の弱さを、貴女に預けた。私の子供じみたわがままを、『守る』というもっともらしい理由で包んで、誤魔化した。婚約者という立場を利用して、貴女を縛った。私は――」
ルシアン皇子の目から、一粒の涙がこぼれました。
「――ただ、貴女を離したくなかった」
告解に震えるルシアン皇子の痛みが手から伝わります。違う。違う! リアナは力いっぱい手を握ります。違うのです。ルシアン皇子の苦しみも、悲しみも、痛みも、絶対に間違っていない。けれど、どう間違っていないのか、何が正しいのか、リアナには言葉にすることができませんでした。焦燥に空転する思考を恨みながら、リアナは必死に言葉を探します。時間切れを告げるように、ルシアン皇子はわざとらしいほどの優しい口調に変わりました。
「……左足を怪我しています。おそらくもう歩けないでしょう」
ルシアン皇子は目を開け、大きく息を吸うと、意を決したように厳しい表情を作りました。
「神聖レダニア帝国第三皇子ルシアンの名において、リアナ・クランフォート、貴女との婚約を破棄する」
リアナは息を止め、ルシアン皇子を見つめ返します。月が、冴え冴えと夜を照らします。
「……貴女はもう、自由です」
そう言ってルシアン皇子は柔らかく微笑みました。




