奈落
夜は濃度を増し、遥か天上の星々が地上の営みを嗤うように瞬きます。夜気は冷たく乾いてリアナたちの横を吹き抜けていきました。蓮沼を越えて踏み入った森は、今までとは違う顔で二人を迎えていました。丘に続く緩やかな斜面はところどころ崩落して断崖を作り、落石の跡でしょうか、リアナの背ほどの大きさの岩が行く道を塞ぎます。無数の木が立ち枯れ、あるいは朽ち腐れて横たわっていました。生きている木も表皮が硬くひび割れ、病葉が苦しげに風に耐えてカサカサと音を立てます。かつて広く空を覆っていたであろう大樹の亡骸を月光が照らしました。苔に覆われた大樹に手を当て、リアナは少しの間だけ目を閉じました。
ルシアン皇子と手を繋いで、リアナは落石を迂回し、倒木を乗り越えます。背後には再びたくさんの松明がぼうと揺らめいていました。枝葉を切り払い下草を踏み倒す音が耳に届きます。ルシアン皇子がむき出しの木の根に足を取られてよろめきました。慌てて支えようとするリアナを手で制し、ルシアン皇子は微笑みます。焦る心と裏腹に重く上がらぬ足を叱咤して、リアナは青白い星明りが浮かび上がらせる闇の向こうを見つめました。
二人は足を引きずるように、一歩ずつ前に進みます。やがて目の前に、立ちはだかるように急斜面が姿を現しました。斜面の麓まで進み、二人は足を止めて斜面を見上げます。壁、と言っていいほどに切り立ったその斜面を登るのは不可能でしょう。二人は斜面を右手に向きを変え、再び歩き始めました。左手の地面は崩落し、底を見通せぬ暗闇がぽっかりと口を開けています。斜面にへばりつくような、ひとが一人通るのがやっとの道を二人はおそるおそる進みました。
――ヒュッ
鋭く風を切り裂く音が耳に届き、リアナは反射的に足を止めます。ルシアン皇子が一歩前に出て止まり、二人のちょうど間を矢が貫いて斜面に刺さりました。リアナがごくりと喉を鳴らします。さらに二本の矢が飛来し、一本はルシアン皇子の足元に、もう一本はリアナの頭上を越えて斜面に弾かれました。
「――走って!」
リアナの手を強く握り、ルシアン皇子が叫びます。奥歯を噛み、力を振り絞ってリアナは地面を蹴りました。右手側は壁のような斜面、左手側は奈落の闇――リアナたちは迫る追手に無防備な左半身を晒しているのです。追手の数は続々と増え、放たれる矢は数を増していきます。ひとりしか通れない狭い道を追いかけるより、ここで動けなくしてしまえ、追手はそう判断したのでしょう。
――命令は『生死問わず』だ
敵の隊長の言葉を思い出し、リアナは慌てて首を横に振りました。
――ザリッ
矢が地面を抉る音が聞こえます。
――ガツッ!
斜面の岩に当たって折れた矢が跳ね、リアナのすぐ横を回転しながら奈落に落ちていきました。当てることを意図しない射撃――けれど、当たっても構わない。恐怖で足と止めようが、怪我で足を止めようが、もう足を動かせないものになろうが、彼らにとっては同じなのです。矢と共に放たれる罵声がリアナたちの背を追います。追手の思惑を裏切るには彼らの思うより早く前に進むしかない。繋いだ手だけを頼りに、優しく誘う奈落の闇をにらんで、二人は桟道を行きます。
矢がルシアン皇子の腕を掠め、浅く皮膚を裂きます。緩やかに右に曲がる道を速度を落とさずに駆けていきます。リアナの足元の地面に矢が斜めに突き刺さりました。踏み出した右足が矢を引っ掛け、リアナの身体が前に傾きます。ルシアン皇子は振り返り、リアナの手を強く引きます。リアナはルシアン皇子の胸に飛び込みました。リアナを抱き止め、ルシアン皇子は二歩、後ろに下がります。矢は雨のように降り注ぎ、ルシアン皇子はさらに一歩、後ろに足を踏み出しました。道は緩やかに右に曲がっていました。ルシアン皇子の踏み出した先に、地面はありませんでした。奈落が楽しげに手招きをしています。
ルシアン皇子はリアナの手を離し、その身体を強く道に押し戻しました。リアナは離された手を伸ばし、辛うじてルシアン皇子の左手の指を掴みます。ルシアン皇子の目が驚きに見開かれます。矢がリアナの耳の上を過ぎ、千切れた髪が宙を舞います。背中から奈落に落ちていく皇子の指を、リアナは離しませんでした。崩落した斜面を滑落し、二人の姿は奈落の闇に飲まれました。




