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「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ  作者: 曲尾 仁庵


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蓮沼

 頭上からわずかに差し込む月光を頼りに、ルシアン皇子とリアナは懸命に足を動かします。背後からはあちこちで轟音と悲鳴が上がり、夜の森を乱しています。追手はリアナたちを捕まえたあの隊長たちだけではないのです。ルシアン皇子は震えるリアナの手を強く握りました。

 地面は緩やかに傾斜を増しています。この先はちょっとした丘になっているのでしょう。ホウリの残した足跡は明らかにそちらへと向かっていました。


「この先に、スール殿が必ずいます。もう少しです」


 リアナを励ますように、自分を鼓舞するように、ルシアン皇子は言いました。リアナは固い表情のままうなずきます。ホウリは無事でしょうか? 振り返りたい気持ちを必死に抑えて、二人は前に進みます。

 ルシアン皇子は目を凝らして地面を見つめ、ホウリの足跡を追います。足跡はまっすぐに丘を目指すのではなく、時に蛇行し、あるいは迂回しています。無意味にも思えるその行程を、ルシアン皇子は忠実に辿りました。


――うわぁぁぁぁぁぁぁーーー!!


 そう遠くない場所から切迫した叫び声が聞こえます。そこはホウリの足跡が不自然に曲がっていた場所でした。敵はそこをまっすぐに突っ切ろうとしたのでしょう。混乱と狼狽に背を向けて、ルシアン皇子は顔を上げます。森は先の見通しを拒み、ちっぽけな人間を飲み込もうとしているようでした。


 あと、どれだけ歩けば――


 不安を喉の奥に押し込み、ルシアン皇子は再び地面に目を落としました。




 はっきりとした(しるし)のない、足跡を辿る道は、慎重に見極めなければ見失ってしまうか細い糸のようで、ルシアン皇子はその糸を懸命に手繰ります。自然、歩みは遅くなり、背後に迫る松明の火は背を焼くほどに近付いてきます。絶妙な間隔で仕掛けられたホウリの罠は敵の警戒心を刺激し、その足を鈍らせてくれました。その隙に二人は距離を稼ぎ、敵もまた動き出し――近付かれては引き離すことを繰り返します。ルシアン皇子は額に滲む汗を手で拭いました。息が上がり、時折苦しそうに足を止める皇子を、リアナは見つめることしかできませんでした。

 辿り、踏み出し、踏み越え、ルシアン皇子はふと足を止めると、後ろを振り返りました。視線の先には二人が辿ってきた道がまっすぐに伸びています。いつの間にか、ホウリの足跡は蛇行も迂回もしなくなっていました。


「……もう、罠はない、か」


 きっとホウリが狙ったのは、罠によって敵を全滅させることではありませんでした。そんなに大量の罠を仕掛ける時間も、道具も、彼は持っていなかったのです。彼は最初から、敵に『どこにどれだけ罠があるか分からない』と思わせることで追撃の足を鈍らせようとしていたのです。だから罠は追撃の序盤に偏って配置されていたのでしょう。存在しない罠を敵に警戒させる。それこそがホウリが仕掛けた魔法なのです。


――あとはどれだけ騙されてくれるか


 視界の端にちらちらと松明の火が揺れています。敵は確実に近付いてきているのです。そして、罠はもうないと敵が気付いたとき、それらの火は森の闇を払うほどに大きくなってルシアン皇子とリアナを照らし出すのでしょう。ルシアン皇子はリアナに手を差し出しました。


「走ります。ついてきてくださいますか?」


 もはやホウリの足跡を正確に辿るより、少しでも遠くへ。ルシアン皇子はそう判断したのでしょう。リアナは皇子の手を取り、「はい」とうなずきました。




 底のない森の闇の中で、互いにつないだ手だけを支えに、二人は森を駆けていきます。細い木の枝がリアナの頬をかすめ、かすかに血が滲みました。身体を張って藪を払うルシアン皇子の服は細かい葉がくっつき、ところどころ裂けていました。窪みに足を取られそうになるリアナを、ルシアン皇子が振り返って抱き止めます。「ありがとうございます」と言うリアナに柔らかな微笑みを返し、再び二人は走り出します。

 追手の火はその数を増やしていました。


――バサッ!


 視界を遮る枝葉を切り払ったルシアン皇子の視界が開けます。森が途切れ、二人の目の前には大きな沼が広がっていました。細く青い月光が沼に降り注ぎます。沼は月を映し、水面には無数の蓮が夜闇の中に浮かび上がっていました。

 わずかな時間、魅入られたように立ち尽くした二人は、微かに聞こえる金属の擦れる音に我に返りました。振り返ると、無数の火が迷いのない速さで近付いてくるのが分かります。ルシアン皇子は左右に目を走らせました。沼を泳いで渡るわけにはいきません。迂回するならどちらか――迷いを宿した瞳が地面に足跡を探します。リアナは再び沼に目を向けます。沼に浮かぶ蓮は、リアナが両腕を広げたほどの大きさがありました。


「こちらに!」


 リアナはそう言うと、皇子の返事を待たずに沼に駆け寄ります。ルシアン皇子は顔を上げ、戸惑いながらリアナの背を追いました。リアナは沼の淵に立ち、浮かぶ蓮を見つめます。「何を?」と言いかけた皇子の目の前で、「えぃ!」という気合と共にリアナは蓮に飛び乗りました。


「え、えぇ!?」


 あまりの出来事にルシアン皇子は思わず声を上げました。リアナは月光の下、蓮の上に立っていました。おそるおそる足で蓮をつつき、自分なりの確証を得て、リアナはルシアン皇子に手を差し出しました。


「大丈夫。これで沼を渡れます」


 ルシアン皇子はリアナの手と蓮を交互に見つめます。金属を擦る音が徐々にはっきりと聞こえ始めました。一度目を閉じ、息を吸って、皇子はリアナの手を取ると、意を決して蓮に足を掛けました。リアナが手を引っ張り、皇子が両足を蓮に乗せます。蓮が大きく揺れ、水面が波立ち――蓮は平衡を取り戻しました。


――はぁーーっ


 ルシアン皇子が大きく長い息を吐きます。リアナは皇子の手を強く握り、


「参りましょう、一緒に」


 皇子を見つめます。ルシアン皇子は「はい」とうなずきを返しました。リアナは微笑み、次の足場となる蓮を振り返りました。




 蓮から蓮へ、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、二人が沼の中ほどまでたどり着いたとき、沼のほとりに松明の火が掲げられました。


「いたぞ!」


 兵士が叫び、後続の松明がぞくぞくと数を増やしていきます。


「……もう、ここまで――」


 ルシアン皇子が顔色を失ってつぶやきます。兵士たちは沼を前にして戸惑っているようでした。迂回するか、沼を進むか――兵士の一人が「とうっ」と声を上げて跳び、蓮の上に着地して、


「うわぁっ!!」


 あえなく蓮ごと沼に沈みました。周囲の兵士が慌てて兵士を沼から引き揚げます。「子供じゃねぇんだ、乗れるかバカ」と冷たい罵声が飛びました。


「回り込むぞ! 二手に別れろ!」


 一人がそう叫び、兵士たちは沼の左右に分かれて走ります。わずかに安堵の表情を滲ませ、ルシアン皇子はリアナと共に次の蓮へと飛び移りました。


「……くそっ!」


 沼に落ちてずぶ濡れになった兵士は、腹立ちまぎれにそう吐き捨てます。苛立った表情で水滴を払うと、兵士は別の兵士が背負っていた弓を奪い、おもむろに矢をつがえて引き絞りました。月光を反射する水面がリアナとルシアン皇子の背をぼうと照らします。兵士は怒りを吠えながら矢を放ちました。


――ヒュッ


 矢は風を切り、月を裂いてリアナたちの頭上を越えていきました。リアナが身を竦ませ、背を冷たい汗が伝います。


「当たるかバカ! 矢を無駄にしやがって!」

「うるせぇ!」


 弓を奪われた兵士が怒鳴り、奪ったほうの兵士が怒鳴り返して、二人はにらみ合いました。別の兵士が二人の尻に蹴りを入れ、先に進むよう促しました。二人はしぶしぶ怒りを収め、他の兵士について移動を始めました。

 青白い顔で硬直するリアナを引き寄せ、ルシアン皇子は叱咤するように名を呼びました。震える唇で言葉にならない返事をして、ぎこちなくリアナはうなずきます。ルシアン皇子が先導する形で二人は蓮の橋を渡りました。再び地面に降り立ち、沼を縁どる炎の列に背を向けて、二人は丘の上を目指して森の闇に分け入っていきました。


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