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「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ  作者: 曲尾 仁庵


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敗北

 日暮れを迎え、リアナとルシアン皇子は樹上から地面に降り立ちます。兵士たちが去ってから、直接姿を見せる敵兵はいませんでしたが、何者かが森を移動する気配はそこここで感じられました。ここはもう、いつ敵に遭遇してもおかしくない場所なのだと、二人は改めて表情を引き締めます。リアナは匿ってくれた大樹に向き直り、幹に手を当てて目を閉じました。


「……ありがとう」


 風が吹き、大木の枝をカサカサと揺らします。「行きましょう」とルシアン皇子が告げ、リアナに手を差し出しました。リアナは皇子の手を取り、小さくうなずきました。

 わずかに残る太陽の光が、木々の輪郭だけを教えてくれます。森は領域を侵す不躾な人間の気配で静かにざわめいています。ルシアン皇子の指先は冷たく、少し震えていました。そしてそれはリアナも同じです。二人は互いに手を強く握って、森の闇に溶け込むようにそっと足を踏み出しました。




 林道に近付くほど、人の気配は濃く、強くなっていきます。松明でしょうか、木々の隙間から遠く赤い光が揺らめき、移動していきました。それらに出くわすたびにルシアン皇子は足を止め、観察し、進む方向を変えていきます。松明の火の移動には規則性があり、それらは一定の間隔で同じ場所を巡回しているようです。巡回の範囲、一周に掛かる時間、死角――それらを見極める時間は途方もなく長く感じられ、リアナは胸を押さえました。

 カメのような歩みで進み、やがてリアナたちの目が視界に林道を捉えました。林道には篝火が焚かれ、兵士たちがその篝火の周辺で目を光らせています。しかし篝火と篝火の間にはそれなりに距離があり、監視の兵もそれほど多くはないようです。おそらく、巡回の兵士がその隙を埋める役割を担っているのです。


「敵の数も無尽蔵ではない」


 言い聞かせるようにつぶやき、ルシアン皇子はリアナを先導して点在する篝火のちょうど中間、どちらの火の光も充分に届かない場所へと移動します。巡回の兵士が充分に遠ざかったことを確認して、ルシアン皇子はリアナに囁きました。


「一気に駆け抜けます」


 ルシアン皇子の手は緊張に汗ばんでいました。決して離れぬよう強く握り、リアナは口を引き結んでうなずき――


「いや、もう走らなくていいぜ」


 背後から聞こえた声に、二人は弾かれたように振り向きました。




「つくづく俺たちは縁があるな、王女様」


 軽薄な、乾いた口調でそう言いながら、声の主は素早くリアナの手を掴んで引き寄せるとその首に刃を当てます。繋いでいたリアナと皇子の手が離れました。手を伸ばそうとしたルシアン皇子を鋭い警告が制止します。


「動くな! 王女殿下の首が飛ぶぜ?」


 ビクリと身体を震わせ、ルシアン皇子の動きが止まります。声の主の仲間が松明に火を点けて周囲を照らしました。明かりに照らし出されたのは、前に別の林道で遭遇した敵部隊の隊長――側近の騎士が身を挺して食い止めたはずの、あの男でした。ルシアン皇子は激しい憎悪を目に宿して隊長をにらみます。隊長はなだめるように言いました。


「そう怖い顔しなさんな。こっちだって個人的な感情はないんだ。仕事なんだから、さ」


 首に触れる冷たい金属の感触に、リアナは声もなく震えます。ルシアン皇子は強く唇を噛みました。同情の目で隊長は皇子を見つめます。


「悔しがる必要もないよ。お前さんは充分によくやった。ただ、大人の知恵はお前さんが思うよりずっと汚くて悪どかったってだけだ」


 不可解そうにルシアン皇子が眉を寄せます。隊長の声にどこか後ろめたいものが混じりました。


「明かりが見えればそちらに意識が集中する、ってことさ」


 ハッと何かに気付いたようにルシアン皇子は目を見開きます。篝火、巡回の松明、それらの光が届かない隙間――リアナたちは明かりを使って、その進路を誘導されていたのです。ルシアン皇子は両手の拳を強く握りました。隊長は冷徹に言い放ちます。


「両手を挙げて膝をつけ。抵抗するなよ? 命令は『生死問わず』だ」


 ルシアン皇子は隊長をにらみつけたまま、挑発するように答えました。


「同じことだ。捕まれば処刑されるのだろう? ほんの数日生き延びたところで何の意味がある」

「数日だろうと、ここで泥にまみれて死ぬよりマシだろうぜ。帝都に戻って処刑台に上がるまで、お前さんは王族として扱われ、身なりを整え、身体を清めることを許される。貴人として死ねるんだ。それは無意味なことじゃない。お前さんを守って死んだ者たちにとっては、特に」


 隊長の言葉にはどこか切実なものが宿り、ルシアン皇子はわずかに瞳を揺らせました。皇子を言いくるめるための建前、だけではない感情がそこにあるような気がして、リアナは隊長の顔を見上げます。しかし隊長はすぐに感情を消し、軽薄な口調に戻りました。


「それとも、言い方を変えたほうがいいか? たとえば、そうだな。投降しなければリアナ王女をこ――」

「待て!」


 隊長が剣を持つ手を動かそうとしたことに気付いて、ルシアン皇子は悲鳴に近い制止の声を上げ、両手を挙げました。


「……投降する。抵抗は、しない」

「いい子だ」


 膝をつく皇子の姿を見て、隊長はリアナの首に当てていた剣を下ろします。近くにいた隊長の部下が縄と取り出して皇子に近付きました。リアナの両眼から涙がこぼれます。


 これで、終わり? こんなに、あっけなく――


 たくさんのひとが、リアナとルシアン皇子を逃がすために身を犠牲にしてきました。きっと彼らにも家族がいて、大切な人がいたでしょう。それでも彼らはリアナたちが生きることを望んでくれました。それなのに、ここで、終わり。彼らの想いも、全部、ここで、終わり――


 力が抜けたように、リアナは身体を隊長に預けます。剣を鞘に納め、倒れそうなリアナを支えて、隊長は小さくつぶやきました。


「……怖い思いをさせて、悪かったよ」




 腕を縄で縛り、部下がルシアン皇子を立たせます。隊長はリアナの肩を両手で持ち、身体を離しました。


「ほら、しっかり立て。あんたをおぶって移動なんて御免だ」


 隊長はそう言うと、リアナの服の土埃を手で払います。リアナは呆然として、されるがままに立ち尽くしていました。全身の埃を払い、何か固い手触りに隊長は手を止めます。そこはリアナの左のポケット――入っていたのは簡素な、王族には似つかわしくない、庶民が使うような櫛でした。隊長は取り出した櫛を見つめ、


「小さくても女の子か」


と感心したように柔らかく微笑みます。櫛をポケットに戻し、隊長は片膝をついて目の高さを合わせると、リアナの目を覗き込んで言いました。


「ルシアン皇子の身柄さえ確保できれば、帝国にあんたをどうこうする動機は薄い。帝都に戻ってもらう必要はあるが、命を奪われることはないだろう。諦めるなよ? 分かるな?」


 リアナの目は虚ろで、涙はとめどなく流れ続けています。ルシアン皇子は隊長の言葉にわずかにホッとした表情を浮かべました。隊長はリアナの両腕を強く掴みました。


「あんたはまだ十歳だ。成長すればできるようになることがたくさんある。今できないことが来年にはできるようになる。生きていれば、できることが必ずある」


 しゃくりあげ、大きな声を上げて、リアナは泣きました。本当に終わったのだと、理解したのです。労しげにリアナの頭を撫で、隊長は立ち上がりました。


「帰るぞ」


 部下たちがふぅ、と息を吐きます。ルシアン皇子の縄を持った部下が、リアナに近付いてそっと手を取りました。優しく手を引かれ、泣いたままリアナは歩き出します。松明の明かりが皆の顔を照らし――


「おい、待て」


 隊長が低く物騒な声を上げ、周囲に緊張が走ります。隊長は剣に手を掛け、リアナの手を引く男を鋭くにらみつけます。


「――お前、誰だ?」


 動きを止めた男の小さな舌打ちの音が、やけに大きく森に響きました。


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