正解
二階建ての建物よりも高い位置の枝の根元に座り、二人は息を殺しています。リアナは体勢の覚束ないルシアン皇子に身体を寄せ、支えていました。緊張して力む皇子の早鐘のような拍動が伝わってきます。ああ、このひとも怖ろしいと思うのだな――そんな当たり前のことに、リアナは初めて気付きました。
足元では敵の兵士が鉈で下草を切り払いながら進んでいました。兵士の数は四人。しかしその態度はやる気を感じられず、不満でいっぱいのようでした。
「ああ、めんどくせぇなぁ」
鉈を振るっていた先頭の兵士がたまりかねたようにそう言って足を止めました。ちょうどリアナたちがいる大木に寄り掛かり、仲間たちに愚痴を言い始めます。
「なーんで俺たちがヤイユールの連中にアゴで使われなきゃなんねぇの? おかしいだろ」
仲間の一人がたしなめるように言いました。
「やめとけ。誰が聞いてるか知れんぞ」
「こんなクソ森の中で誰が聞いてんだよ」
忌々しそうに兵士は地面を蹴ります。よりにもよってこんな場所で立ち止まって話し始めるなんて――リアナは苦々しい表情を浮かべました。はやくどこかに行って、とリアナは兵士たちをにらみつけます。ルシアン皇子は身体を強張らせたままです。このまま長時間、ここに隠れているのは難しいでしょう。
「それに、俺たちはあの奴隷どもの言うことに従っているわけじゃない。上官の命令に従っているだけだ。従わなければ命令違反を問われるのはこっちだぞ」
「そんな理屈はどうでもいいんだよ!」
兵士は顔を歪めて吐き捨てました。感情的になっている兵士に、仲間たちは肩をすくめて顔を見合わせます。大きく息を吐き、腕を組んで、兵士は仲間に言いました。
「……聞いたか? スール森林官が姿を消したってよ」
兵士の仲間たちの表情が引き締まります。覚えのある名前が聞こえたことに、リアナの心臓がひとつ強く鼓動を打ちました。
爺が姿を消した? リアナのルシアン皇子を支える手に力が入ります。兵士の仲間たちは何もピンと来ていない顔で言いました。
「スール森林官って誰よ?」
「……お前らなぁ」
兵士は呆れた顔で深いため息を吐きます。できの悪い生徒に教える口調で、兵士は人差し指を立てました。
「いいかね? スール森林官ってのは、第三皇子の逃亡先として名前が挙がってた、クランフォートの元将軍だ。第三皇子はスールと合流してクランフォートの庇護を受けようとしてるってこった」
ふぅん、と仲間は興味の無さそうに答えます。兵士はがっくりと肩を落としました。仲間の一人が気の毒そうな顔をして、取り繕うように声を上げます。
「で、そのなんとか森林官がいなくなったのか? バレて逃げ出したってこと?」
うらみがましい目で仲間を見つめ、兵士は話を続けました。
「逃げ出したんならよかったがな。第三皇子が逃走した後、スール森林官は軍の監視下に置かれていたらしいんだが、昨日の夜、子飼いの兵士と共に忽然と姿を消したって話だ。館に火を放ってな」
それを聞いても、仲間たちはへぇ、という薄い反応を返すだけです。「危機感を持てよ」と口の奥で唸り、兵士は鼻にシワを寄せました。
「いいか、分かってないようだから教えてやる。スールは第三皇子を迎えに行くために館を出たんだ。館を燃やしたのはもう帰ってこないから、つまり、敵対の意志を隠す必要がなくなったからだ。俺たちは今、第三皇子を探しながら、常に背中を警戒してなきゃならなくなってんだよ!」
おぉ、と仲間たちは初めて表情を引き締めました。ようやく伝わったことに安堵し、兵士は大きく息を吐きます。
「でも、なんでそのなんとかさんは第三皇子を助けるんだ?」
ふと仲間の一人が思いついたようにつぶやきます。兵士は「そりゃ」と答えようとして言葉に詰まり、視線を右上に向け、視線を戻して断言します。
「そりゃ、アレだろ。仲良しなんだろ」
なるほど、と仲間たちは神妙な顔でうなずきます。「納得すんのかよ」と兵士は再びうなだれました。
「……とにかく、もう俺たちは狩るだけの側じゃなくなったってことだ。真面目に捜して第三皇子を見つけたとしてもヤイユールの連中の評価が上がるだけだし、はっきり言って割に合わねぇ。林道に近いこの辺りならそうそう敵に出くわすこともないだろ。適当に回って帰るぞ」
へぇーい、と気の抜けた返事をして、仲間たちは緩慢に歩き出しました。彼らの背中を心配そうに見つめ、兵士はすぐにその後を追っていきました。
樹上で息を潜め、兵士たちの気配が完全になくなって、さらにしばらく待ってから、リアナとルシアン皇子は大きく息を吐きました。彼らの誰かが何となく空を見上げただけで見つかってしまう距離だったのです。見つからなかったのは運がよかっただけ――あとはあの兵士たちのやる気のなさのおかげでしょうか。でも、国を守る兵士のあの態度を目の当たりにすると、王家に連なる者としては複雑な気分です。クランフォートの兵士も、本音ではあんなふうに考えているのでしょうか?
不意に隣にいるルシアン皇子の身体が揺れ、リアナは慌てて腕を背に回して支えました。皇子は木の幹に手を当てて姿勢を安定させ、「申し訳ありません」とつぶやきます。強く緊張し、それが解けたことで身体が疲れを思い出したのかもしれません。
「降りましょう、殿下。私が支えますから」
ルシアン皇子は首を横に振り、呼吸を整えると、苦しそうに唾を飲み込んだ後、「大丈夫です」と答えました。
「……あまり、動かないほうがいい。それよりも、先ほどの兵士たちが、言っていたことが、気になります」
――スール森林官が姿を消した
兵士の言葉を思い出し、リアナの中に熱いものが湧き上がります。爺が私たちを助けるためにこちらに向かっている――そう思っただけで、もう少し頑張れるような気がしました。
「爺たちは必ず来てくれます。もう少しの辛抱です」
高揚するリアナの声とは対照的に、ルシアン皇子は冷静に言葉を返しました。
「……問題は、二つあります。一つは、どうやってスール殿と合流するか」
今までは、スールと合流するためにリアナたちが皇領森林に向かっていました。スールは森林官の館で待ち、居場所が変わることはありません。リアナたちが皇領森林に辿り着きさえすればよい――道中の困難を脇に置けば、目標自体はシンプルなものでした。しかし今、スールが移動を始めたことで、リアナたちの目標地点が分からなくなってしまいました。皇領森林に辿り着いても、そこにスールがいなければ意味がありません。だからと言って闇雲に進んでも会える可能性は限りなく低いのです。リアナの顔から急速に高揚がしぼんでいきました。
「もう一つは、本当にスール殿は姿を消したのか、ということです」
言葉の意味を捉えかねて、リアナは首を傾げます。
「あの兵士たちが、嘘を?」
「いえ、彼らは本当にそう思っているでしょう。しかし、それが真実とは限りません」
言葉を止め、喘ぐように深く呼吸をして、ルシアン皇子は言葉を探します。
「あの兵士の情報源は伝聞でしょう。意図的に兵士たちに偽情報を流した可能性も考えなくてはなりません」
「ど、どうしてそのようなことを?」
混乱したようにリアナは眉を寄せました。味方に嘘を吐いていったい何の意味があるのでしょう? ルシアン皇子は淡々と答えます。
「部隊内に密偵がいると考え、逆に利用としているのかもしれません。スール殿が館にいないとなれば、こちらは行動の見直しを迫られます。結論が出るまで動けなくなりますし、焦って浅い考えのまま行動してくれればなお良し、というところでしょうか」
事実、迷わされてる――ルシアン皇子は苦々しくつぶやきます。リアナはしょんぼりと肩を落としました。
「……爺は、まだ館にいるのですか?」
思いのほか気落ちした様子のリアナに、ルシアン皇子は慌てたように細かく首を振ります。
「その可能性もある、ということです」
リアナが戸惑う瞳でルシアン皇子を見つめました。ルシアン皇子は安心させるように微笑みを返します。
「私はスール殿のことを詳しくは知りません。彼はどのようなお方ですか?」
性格を知ればスールが館を出たかどうかを判断する手掛かりになる、と言われ、リアナは記憶を辿ります。乳母の父親であったスールは、まるで本当の孫のようにリアナに接してくれていました。記憶の中のスールは、いつもにこにこと笑うおじいちゃんです。
「……爺バカ?」
思わず口に出た予想外の単語を聞き、ルシアン皇子は目を丸くします。おかしなことを言ってしまったと気付いて、リアナは慌てて訂正しました。
「爺は、どちらかというと直観で動くタイプです。情に厚く、兵に慕われていたと聞いています」
若いころはしょっちゅう無茶をして、百騎足らずで十倍する敵に突っ込んで包囲されている味方を救った、などという武勇伝を、膝の上でよく聞かされていたことをリアナは思い出しました。懐かしさが込み上げてきて、リアナは慌てて首を振ります。今は昔を懐かしんでいる場合ではありません。
スールに対する人物評を聞き、考えをまとめるためでしょうか、ルシアン皇子は独り言のようにつぶやき始めます。
「……爺バカで直情的なら、リアナ殿下の危機に館を出ることはありうる。だが、実際には彼はこのクーデターを予期し、準備を整えていた。その冷静さと強かさは状況と矛盾する。館を出れば合流が難しくなることは分かっていたはず。監視下に置かれていたと兵士は言っていたが、第二皇子がもっと強引な手段に出たか? 館を放棄したのではなく、放棄せざるを得なかった? それとも、こちらの居場所を正確に知る確証があって館を出た? ……どちらも推測に過ぎない」
小さく首を振り、ルシアン皇子は目を閉じました。リアナはその横顔を見つめています。
「スール殿が館に留まっているなら、進まなければならない。だが館を出たなら、連絡を取るのが最優先だ。スール殿が館にいるかどうかを確かめる術はない。どちらが正しい? 何か、他に手掛かりは――」
考えを巡らせながら、ルシアン皇子はちらりとリアナに目を向けました。すぐに視線を戻した皇子を見て、リアナは理解しました。ああ、このひとが迷っているのは――
「私への配慮は無用です」
守らなければならない、そう思えば思うほど、『正解』しか選べなくなる。存在しない『正解』を探して動けなくなる。ルシアン皇子はハッとリアナを見つめます。リアナは微笑んで言いました。
「もう答えはお持ちなのではありませんか?」
ルシアン皇子は目を伏せ、小さな声で答えます。
「……最悪手はここに留まること。スール殿が館に留まっているなら時間の浪費、館を出たとしたら、彼の兵が何人いるか分かりませんが、彼らに林道を越えさせれば必ず敵に見つかります。最低でも私たちは林道を越える必要がある。そして、スール殿が館を出たとしても、私たちと連絡を取れていない以上、スール殿は『私たちが皇領森林を目指している』前提で動いている可能性が高い。つまり――」
ルシアン皇子は顔を上げ、揺れる瞳でリアナを見つめました。
「――予定通り、私たちは皇領森林を目指します」
皇子の言葉を肯定するようにリアナは大きくうなずきます。ルシアン皇子は苦しげに再び視線を落としました。
「しかし、これが正解とは――」
「いいえ、殿下」
リアナは背を伸ばし、ゆっくり、はっきりと言いました。
「殿下の決断こそ『正解』なのです。それ以外はありません」
ルシアン皇子がもう一度リアナを見ます。少し冗談めかしてリアナは言いました。
「もし殿下の決断を『間違い』と言う者があれば、私が怒って差し上げます」
右手で拳を握り、リアナは「『こらっ』って」と怒ってみせます。気が抜けたように、ルシアン皇子は笑いました。リアナもまた笑います。ルシアン皇子はリアナをじっと見つめ、
「……貴女の強さを、私は――」
そう言って、ハッと自分の口を手でふさぎました。「何でもありません」と顔を逸らす皇子の手を取り、リアナは勇気付けるように言いました。
「大丈夫。爺はかくれんぼのとき、私がどこに隠れても必ず見つけてくれましたもの」
リアナの手を握り返し、ルシアン皇子は迷いを振り払った目をしてうなずきを返します。
「日暮れを待ち、林道を越えます」
はい、と答え、リアナは握った手に少し力を込めました。




