距離
六日目。早朝の冷たい空気が洞に吹き込み、リアナはゆっくりと目を開きました。頭は重く、意識はぼんやりとしています。あまり眠れていないのです。
ルシアン皇子はすぐ隣に横たわり、苦しげな寝息を立てています。また少し熱を出したようです。リアナは汗ばむ皇子の額に手を当て、髪を撫でました。
目を覚ませばきっと、皇子はまた無理をするのでしょう。大丈夫だと微笑んで歩くのでしょう。この御方は、なんて、なんて優しい――
「――嘘つき」
リアナは小さくそうつぶやき、ルシアン皇子の寝顔をにらみます。本当にもう、この優しい嘘吐きをどうしてくれよう。どうやって、守ってくれようか。
(爺に会うことさえできれば、必ず助かる。諦めない。絶対に――)
熱を持ったルシアン皇子の手を握り、リアナは固く目を閉じました。
朝の湿った冷たさが幾分和らぐ時刻になって、ルシアン皇子はようやく目を覚ましました。小さくうめき声を上げ、顔をしかめてゆっくりと目を開けるルシアン皇子をリアナはじっと見つめています。まだ意識がはっきりとしていないのでしょう、皇子はしばらくぼんやりとリアナを見つめ返していました。徐々に瞳に光が戻り――ルシアン皇子は慌てた様子で身体を起こしました。
「も、申し訳ありません! 寝過ごしてしまって」
視線をさまよわせ、ルシアン皇子は面白いほどに動揺しています。リアナも上半身を起こし、首を横に振りました。
「寝過ごした、というほどではありません。お疲れなのは分かっておりますから」
でも、とルシアン皇子は視線を落とします。
「……とても険しい顔で、こちらをにらんでいらっしゃった、から」
リアナはハッと両手で自分の顔を触ります。どうやら、皇子の寝顔を見ながら皇子を助ける方法を考えていたら我知らず険しい顔を作っていたようです。指で頬をほぐし、表情を柔らかくしてリアナは頭を下げました。
「申し訳ありません。少し考え事をしていたのです。怒っていたわけではありません」
「そ、そう、です、か」
どこか怯えたような声で、ルシアン皇子はぎこちなくうなずきます。そんなに怖い顔をしていたのかしら、と、少しだけリアナは落ち込みました。
「と、とりあえずここを出ましょう。少しでも前に進まなければ」
そう言うなり、ルシアン皇子は身を屈めて洞の外へと出ていきました。二人が入れば一杯になる空間に一人残され、なんとなく不可解な気持ちを感じながら、リアナは皇子を追って洞から這い出たのでした。
「もう少し進むと」
歩きながらルシアン皇子は後ろにいるリアナに言います。
「細い林道があるはずです。敵も森の探索に利用しているでしょう。ここからはより慎重に進んだほうがいい」
ホウリ殿に見せてもらった地図に書いてありました、と事も無げに言うルシアン皇子にリアナは感嘆の息を吐きました。リアナもその地図は見ているはずですが、林道がどこにどう走っているかなどまるで覚えていません。そもそも内容を憶えようなんて思いながら地図を見てなどいなかったのです。
「できるだけ音を立てぬよう、ゆっくりでも確実に参りましょう。結果的にそのほうが早く着く――」
――パキッ
乾いた音が響き、ルシアン皇子が足を踏み出した姿勢のまま固まります。皇子の右足が地面に落ちていた枯れ枝を踏んでいました。皇子の顔にわずかな朱色が差します。
「何も、まったく、音を立てないなど、きっと、無理、です」
リアナはおそるおそる、言葉を選んで、ルシアン皇子の背に手を当てました。ルシアン皇子は両手で顔を覆い、消え入るような声で「……はい」と答えました。
暗い森に差すわずかな木漏れ日がかろうじて時間の経過を教えてくれます。おそらく時刻はお昼を過ぎ、森は静かに騒めいていました。トカゲが木の肌を這い、手のひらほどの小さな鳥が虫を食む。リアナたちとも、敵の兵士たちとも無関係に、森は森の営みを繰り返しています。
前を歩くルシアン皇子が不意に足を止め、軽く右手を挙げて合図します。そっと側の大木に身を寄せるルシアン皇子にリアナは身を寄せました。二人は呼吸の音さえ厭うように耳を澄ませます。
――ガツッ、バサッ!
獣の足音とは明らかに違う、刃物で乱暴に枝を払う音が、二人が進もうとしていた方向から聞こえてきます。ルシアン皇子の身体が強張りました。音はまだ遠く、逃げることはできそうです。でも、どこに? そんな逡巡が皇子の顔に浮かびます。迷う間に音は近付いてくる――リアナは側に立つ大木を見上げました。しっかりとした太い枝が天を目指して無数に伸びています。
「……上に」
ルシアン皇子にそう囁き、リアナはむき出しの大木の根に足を掛けます。戸惑う皇子をよそに一番下の枝に登り、リアナは皇子に手を差し出しました。
「さあ、どうぞお手を」
ルシアン皇子はリアナを見上げ、複雑な表情を浮かべます。リアナはまっすぐに皇子の目を見つめました。敵の音は確実に近付いてきます。覚悟を決めたようにうなずき、ルシアン皇子はリアナの手を取りました。
二階建ての建物よりも高い位置の枝の根元に座り、二人は息を殺しています。リアナは体勢の覚束ないルシアン皇子に身体を寄せ、支えていました。緊張して力む皇子の早鐘のような拍動が伝わってきます。ああ、このひとも怖ろしいと思うのだな――そんな当たり前のことに、リアナは初めて気付きました。
足元では敵の兵士が鉈で下草を切り払いながら進んでいました。兵士の数は四人。しかしその態度はやる気を感じられず、不満でいっぱいのようでした。
「ああ、めんどくせぇなぁ」
鉈を振るっていた先頭の兵士がたまりかねたようにそう言って足を止めました。ちょうどリアナたちがいる大木に寄り掛かり、仲間たちに愚痴を言い始めます。
「なーんで俺たちがヤイユールの連中にアゴで使われなきゃなんねぇの? おかしいだろ」
仲間の一人がたしなめるように言いました。
「やめとけ。誰が聞いてるか知れんぞ」
「こんなクソ森の中で誰が聞いてんだよ」
忌々しそうに兵士は地面を蹴ります。よりにもよってこんな場所で立ち止まって話し始めるなんて――リアナは苦々しい表情を浮かべました。はやくどこかに行って、とリアナは兵士たちをにらみつけます。ルシアン皇子は身体を強張らせたままです。このまま長時間、ここに隠れているのは難しいでしょう。
「それに、俺たちはあの奴隷どもの言うことに従っているわけじゃない。上官の命令に従っているだけだ。従わなければ命令違反を問われるのはこっちだぞ」
「そんな理屈はどうでもいいんだよ!」
兵士は顔を歪めて吐き捨てました。感情的になっている兵士に、仲間たちは肩をすくめて顔を見合わせます。大きく息を吐き、腕を組んで、兵士は仲間に言いました。
「……聞いたか? スール森林官が姿を消したってよ」
兵士の仲間たちの表情が引き締まります。覚えのある名前が聞こえたことに、リアナの心臓がひとつ強く鼓動を打ちました。




