ふたり
背後から聞こえる戦いの音を置き去りに、ルシアン皇子とリアナは走り続けました。濁流は周囲の音を飲み込み、剣を打ち合う音も、騎士の叫びも、すぐに掻き消してしまいます。砂利を蹴る自分たちの足音を聞きながら走って、しばし。ルシアン皇子は立ち止まり、振り返ります。手をつないだままリアナはルシアン皇子の顔を見上げました。ルシアン皇子は息をなだめながら濁流の向こう側をじっと見つめています。その表情は皇宮にいたときと同じ、感情を押し殺した仮面を被っていました。リアナは握る手に少しだけ力を込めます。ルシアン皇子はハッとリアナに視線を向け、安心させるように微笑みました。
「追っ手は振り切ったようです。一度森に入って休みましょう。ここは見通しが良すぎるから」
リアナはうなずき、ルシアン皇子に手を引かれて森へと向かいました。ルシアン皇子の顔は穏やかに微笑んだまま、手はわずかに震え、歩みはぎこちなく、張り詰めたように身体が強張っています。騎士が、ホウリが、兵士たちがしてくれていたように、今度は自分がリアナを守らねばならない――そんなふうに思っているのでしょう。
(私は、殿下に『守られる』の?)
少し前を歩くルシアン皇子の横顔を見上げながら、ふと、リアナはそんなことを思いました。密偵の男も、ホウリも、側近の騎士も兵士たちも、皆がリアナを守ってくれました。守って、いなくなってしまいました。リアナを守る人は、皆いなくなってしまいます。皆の顔を、声を思い出し、リアナの心臓がきゅっと冷たく縮みました。考えないようにしていたこと――いなくなったことの意味を、理解してしまったのです。リアナは立ち止まり、胸に手を当てました。どれだけ息をしても、苦しい――浅く早い呼吸を繰り返し、リアナは固く目を閉じました。
「どうされました?」
立ち止まったリアナを振り返り、心配そうにルシアン皇子は顔を覗き込みます。つないだ手から伝わる体温は熱く、ルシアン皇子が無理をしていることは明らかでした。そんな皇子がリアナを『守』ろうとしたら――きっとまたいなくなってしまう。
(守られては、ダメだ)
リアナは大きく息を吐き、顔を上げ、ルシアン皇子に答えます。
「大丈夫。参りましょう」
ルシアン皇子に並んで、リアナは再び歩き始めました。
倒木に腰かけ、ルシアン皇子は目を瞑ります。リアナは隣にちょこんと座り、ルシアンを見ていました。霧のような雨は止み、森に差し込むわずかな光が木の葉の露に反射しています。湿った倒木の不快な冷たさがお尻から伝わり、リアナは顔をしかめます。ルシアンは振り絞るように息を吐き、目を開けました。
「ホウリ殿が最初に言っていました。川沿いを歩いて皇領森林までは七日かかると。今日は五日目ですが、私たちは四日目には移動していませんから、実質的には四日目ということになります」
「今がちょうど半分、ということですね?」
うなずきながらそう答えるリアナに、ルシアン皇子は少し驚いたような表情を浮かべます。リアナは小さく首を傾げました。
「何か?」
「あ、いえ。あまり、落ち込んでおられないのですね」
リアナは両手を腰かけている倒木に付いて上を向きました。
「半分、来たのです。もう半分も行けないはずはありません」
言い聞かせるようなその言葉に、ルシアン皇子は好ましく微笑み、視線を落としました。
「貴女は、お強い」
リアナは首を横に振り、ルシアン皇子の袖を掴みます。
「強く在らねばならないのです。きっと、私たちは」
言葉の強さとは裏腹に、声は震え、瞳は揺れています。でも、それでも、進むのです。生きているから。生きることを望まれたのだから。
「……はい」
ルシアン皇子がリアナの目を見つめます。うなずきで応え、リアナは笑顔の形を作ると、立ち上がって言いました。
「まずは、食べ物を探しましょう」
「え?」
話が急に切り替わり、ルシアン皇子は戸惑いを浮かべます。「実は」とリアナは真剣な口ぶりで言いました。
「森を歩く中で、果物のようなものが成っているのを何度か見かけていました。どんな味がするのだろうと、ずっと気になっていたのです」
ルシアン皇子はぽかんとリアナを見て、やがて吹き出すように笑いました。
「貴女というひとは、本当に――」
「笑わないでくださいませ! 大切なことです!」
リアナは殊更に怒ったふりをして頬を膨らませます。ルシアン皇子も楽しそうに笑ったふりをしています。心細さを噓にして、二人は手を繋ぎました。
「行きましょう」
「ええ」
休憩の終わりを宣言し、二人は再び木々のうねる森の奥へと足を踏み出しました。
「リ、リアナ様!?」
おろおろするルシアン皇子をよそに、リアナは太い木の枝に手を掛け、するすると昇っていきます。てっぺんに近い枝に、アケビに似た実がいくつかぶらさがっていました。リアナは器用に実をもぎ取り、そのまま口に運んで――
「……にっがーーっ!」
すぐに口から吐き出し、涙目で顔をしかめました。
リアナが身を屈め、木の根元をじっと見つめます。そこには何ともカラフルなキノコが生えていました。赤、青、黄、紫――ごくりと唾を飲み込み、リアナはそっと震える手を伸ばしました。ルシアン皇子が慌ててリアナの手を掴みます。
「待ってください。落ち着いて。キノコはやめましょう。原色は特に」
「でも、何か食べなければ」
リアナはキノコを見つめたままです。ルシアンは両手でリアナの頬を挟み、強引に振り向かせました。
「他にもきっと食べるものはあります。焦ってはなりません」
「……はい」
不承不承、リアナはうなずきます。ルシアン皇子は大きく安堵の息を吐きました。
――ピューイ
間近に笛のような音が聞こえ、リアナは身を固くしました。ルシアン皇子がリアナを背に庇い、周囲に目を走らせます。
「あれは――」
警戒の色を薄め、ルシアン皇子は右手の方向に目を留めます。空を覆う枝葉のわずかに空いた隙間から光が射し、一匹の雌鹿を照らしていました。雌鹿はもう一度「ピューイ」と鳴くと、ふいっと顔を背けて歩き出しました。逃げるでも襲うでもなく、まるでついてこいと言わんばかりの速さで、雌鹿は悠然とどこかへ向かいます。わずかなためらいの後、リアナたちは雌鹿の後を追いました。雌鹿は振り返ることもなく進んでいきます。
しばらく歩くと、不意に視界を覆う木々が途切れ、ちょっとした広場のような空間が現れました。広場の中心には滾々と清水の湧く泉があります。雌鹿は首を下げて泉の水を飲むと、リアナたちのことなど興味もない、と言うように去っていきました。リアナはルシアン皇子と共に泉のほとりに立ち、しゃがんで両手に水を掬うと、口に含みました。わずかに甘みのある水が喉を通り、身体全体に広がっていきます。喉が渇いていたのだと気付き、二人はもう一度水を掬いました。
日が落ち、二人は朽ちかけた大木の根元に大きな洞を見つけ、そこに潜り込みました。雨はとっくに止んでいましたが、地面に落ちた枝や葉が半日足らずで乾くはずもなく、リアナたちは火を起こすこともできませんでした。
「それにしても驚きました。リアナ殿下が木登りをされるなんて」
夜の暗闇の中、ルシアン皇子はリアナにそう話しかけます。リアナはどこか自慢げに言葉を返しました。
「クランフォートは森の国。木登りくらいどうということはありません」
「それはすごい」
狭い洞の中で、二人は身を寄せ合い、笑います。虫がガチャガチャと鳴き、時折風が木々を揺らします。遠くで獣の遠吠えが聞こえました。




