揺らぎ
自室に戻り、リアナはスールの言葉の意味を考えていました。
ルシアン殿下のお立場は危うい
それはいったいどういう意味なのでしょう? 第三皇子である彼は、今、何かに脅かされているのでしょうか? そういえば、このところのルシアン皇子はとても忙しそうで、婚約者であるリアナであってもなかなか会えない状態が続いていました。だからこそ今朝は渡り廊下で待ち伏せをして婚約破棄を迫ったのです。
(殿下は今、どういうお立場なのかしら?)
リアナは眉を寄せて腕を組みます。そういえば、婚約者として帝都に移る前に、ルシアンという少年のことを聞かされた気がします。リアナは目を瞑り、一生懸命に三年前の記憶を辿りました。
ルシアンは神聖レダニア帝国の第三皇子。皇帝ガーライルと側室の間に生まれました。第一皇子と第二王子は正妃との子であり、二人の兄との折り合いはあまり良くないようです。兄たちがガーライルの性格を色濃く受け継ぎ、何事にも武断的であるのに対し、性格も容貌も母親に似たルシアンは、理知的で物静かで、軍事国家である神聖レダニア帝国においては『柔弱』と見下されているのだということでした。
リアナの婚約が決まった当時、クランフォート王国内では、婚約相手がルシアンであることに激しい憤りの声が上がりました。
――帝国は我らを軽んじている!
――婚約の名を騙る人質要求ではないか!
皆の言っていることは難しく、その内容を充分に理解することはリアナにはできませんでした。しかし、皆がひどく怒り、悲しんでいる様子を見て、これはきっとひどいことなどだと、本当は受け入れてはいけないことなのだと、そう思いました。けれど――
ルシアンも本当は、苦しいのでしょうか? 兄弟から疎まれて悲しいのでしょうか? 優しさをバカにされて悔しいのでしょうか? 属国から来た見も知らぬ女の子を急に婚約者だと言われて、傷付いたのでしょうか?
リアナは瞼の裏にルシアン皇子の姿を思い浮かべました。皇子はいつも穏やかに微笑んでいます。優しく、こちらが理解できるようにゆっくりと話します。まるで義務のように。本心を話してくれたと思ったことは一度もありません。ルシアンが本当は何を思っているのか、リアナには分かりません。
「……私は、殿下のことを何も知らないのだわ」
三年も同じ場所にいて、何も見ていませんでした。自分の寂しさ、自分の苦しさばかりで、ルシアンが本当は苦しいのかもしれないなんて、思ってもみませんでした。リアナは初めて、ルシアンのことが知りたいと思いました。知らなければならないと、そう思いました。
「明日、殿下に会いに行こう」
目を開け、リアナは小さくそうつぶやいたのでした。
翌朝、皇宮は奇妙な慌ただしさに包まれていました。文官、武官を問わず、多くの人々が忙しなく行き来しています。誰もがその顔に強い緊張を宿していました。何か、よくないことが起きるような――そんな胸騒ぎを感じ、リアナは胸の前で両手を握りました。
ピリピリとした空気の中、リアナは身支度を整えて部屋を出ます。朝、ルシアン皇子は必ず中庭の渡り廊下を通るのです。常になく人とすれ違いながらリアナは中庭を目指しました。薄暗い廊下から中庭の明るい光が見えます。リアナは急かされるように足を早めました。
「殿下!」
リアナが中庭に出ると、ちょうど渡り廊下を歩くルシアン皇子の姿が見えて、思わずリアナは皇子を呼び止めました。ルシアン皇子は驚いたように目を見張り、足を止めます。側近の騎士が険しい顔をして前に踏み出し、皇子とリアナを分かちます。
「リアナ殿下。ルシアン様は今、大変お忙しいのです。婚約破棄はまた、日を改めてお申し出ください」
「い、いえ、私は……」
騎士の強い口調に鼻白み、リアナは言葉の続きを失いました。今日は婚約破棄を求めに来たのではないと、そう言いたいのに、うまく口にできません。リアナはルシアン皇子に視線を向けました。ルシアン皇子はいつものように穏やかに微笑んで――おらず、表情を失ったようにリアナを見つめます。
「リアナ様。貴女は――」
ルシアン皇子は呆然と、少しかすれた声で、
「――私のことが、お嫌いですか?」
そう言いました。まったく想像していなかった問いに、リアナは思わず「えっ?」と声を上げます。ハッと我に返り、ルシアン皇子は仮面のような微笑みを取り戻すと、取り繕うように言いました。
「詮無きことを申しました。どうぞ、お忘れください」
リアナから視線を逸らし、ルシアン皇子は足早に去っていきます。リアナは答えることもできず、ただその背を見送るしかありませんでした。




