役割
五日目。ルシアン皇子の熱は下がらず、リアナたちは交代で看病し続けて朝を迎えました。水に浸した布を額に乗せ、手を握る。できることはそれくらいしかありませんでした。ホウリは未だ戻らず、敵が迫っているのかどうかも分かりません。何も分からない――リアナはルシアン皇子の手を強く握ります。支えているのか、縋っているのか、それさえも分からずに、リアナはうつむいて奥歯を噛みました。
――パラ、パラパラ
外から何かを叩くような音が聞こえます。側近の騎士は横穴から身を乗り出し、空を見上げて忌々しげに言いました。
「――雨だ」
雨粒が木の葉を打ち、固い音を立てていました。ホウリが出ていくときに言ったことが思い出されます。
――雨が降り始めたらすぐに離れろ。ここは雨水の通り道だ
雨足が強まれば、周辺の雨水が集まってこの横穴に流れ込む。このままここにいては溺れてしまうかもしれません。側近の騎士は迷うように横穴の中を振り返ります。雨はまだパラパラと降っているだけです。今、発熱した皇子を連れてここを出るのが正解なのか――騎士は剣の柄を掴み、強く握りました。
ガサリ、と草を揺らす音がして、側近の騎士は再び外に顔を向けました。強張る騎士を制するように「俺だ」と声が掛かります。草をかき分けてホウリが横穴に入ってきました。小さく息を吐き、側近の騎士は剣の柄から手を離しました。
「すまん、遅くなった」
水滴を払い、穴の中を見渡して何かを感じ取ったのか、ホウリはやや硬い声で問いかけます。
「何があった?」
「殿下が熱を」
側近の騎士が答えます。ホウリは「そうか」とつぶやき、感情を押し込めるように少しの間口を閉ざすと、淡々とした声音で言いました。
「結論から言う。追手は増員されている、が足りていない。森を包囲するほどの兵員はない」
「どういうことです?」
兵士の一人が声を上げます。増員されているが足りない。つまり、敵は中途半端な対応をしている、ということです。ホウリは感情を交えずに言葉を続けました。
「敵は迷ってるってことだ。こっちを見つけた部隊からの報告を無視できないが、こちらに注力することもできない。こちらがフェイク、あるいは誤報である可能性を捨てられない。こちらでないほうが本物かもしれないと思っている。つまり――」
ほんのわずか、ホウリの声が温度を纏いました。
「――街道組は未だ敵の注意を引いている、可能性がある」
「生きてるのか、あいつらは!?」
もう一人の兵士が思わずといった様子で大きな声を上げました。ホウリは再び冷静な声に戻ります。
「生きている、が疑念を持たれている。早晩偽装はバレるだろう。その前にこちらは皇領森林に辿り着く必要がある」
兵士たち、そして側近の騎士が高揚を抑えるように息を吐きます。リアナが握っている手を、ルシアン皇子が強く握り返しました。リアナは驚いて皇子を振り返ります。ルシアン皇子は重たげに上半身を起こしました。
「ならばすぐにここを発ちましょう」
「殿下!」
ルシアン皇子の言葉に皆の視線が集まります。
「ここに留まっていては、彼らの献身が無駄になる」
その声は毅然として、とても病に伏せる人間の声とは思えません。しかしリアナの握る彼の手はじっとりと汗ばみ、熱を持ったままでした。ホウリは静かに問います。
「いけますか?」
「無論です」
ルシアン皇子の虚勢を受け止め、ホウリは覚悟を決めたように言いました。
「すぐにここを出よう。ここを出たらできるだけまっすぐに南西に向かえ。少し戻ることになるが、当初の予定通り川沿いのルートに戻る。森を突っ切ろうと考えるな。そっちのほうが結果的には早い」
「……ホウリ?」
ホウリの言い方に違和感を覚え、リアナは彼の名前を呼びました。ホウリは道を説明することはあっても指示することはありませんでした。ホウリが皆を先導するなら指示をする必要はないのです。ホウリは少しだけ言いづらそうに言いました。
「俺は――別行動をとる」
側近の騎士が訝しげな雰囲気を纏います。この状況で戦力をさらに分ける意味がどこにあるのかと、そう言いたいのでしょう。ホウリは言葉を続けます。
「こちらから仕掛ける。敵の連携を乱し、混乱を作る」
兵士たちが目を見張り、側近の騎士は何かを言いかけて、何も言わずに視線を落としました。言い訳のようにホウリが言います。
「増援は少ないとはいえ、こっちの人数で突破できる数でもない。まともに戦って勝てん相手には、まともじゃない戦い方が必要だ。そういうのはあんたらには向かんだろう?」
どこか奇妙な雰囲気を感じて、リアナはホウリと兵士たちの顔を交互に見つめます。ホウリはごまかすように笑い声を上げました。
「役割の違いだ。俺は正面から剣を構えて突っ込んでくる敵には勝てん。だから、両殿下を守るのはあんたたちに任せる」
側近の騎士は顔を上げ、うなずきます。兵士たちは可能な限り姿勢を正して敬礼しました。「真面目だねぇ」と茶化し、ホウリは手を上げて応えます。ルシアン皇子はじっとホウリを見つめ、静かに言いました。
「貴方は、街道の兵士たちをも救おうとなさっているのですね」
一瞬だけ驚いたように目を丸くして、ホウリは肩をすくめます。
「……そんなに格好のいいもんじゃありませんよ」
ルシアン皇子は胸に手を当ててホウリに頭を下げました。
「兵士たちに代わり、貴方に最大の敬意と感謝を」
騎士と兵士たちが皇子に倣い頭を下げます。リアナがポツリとホウリの名前を呼びました。ホウリは少しだけ雰囲気を和らげると、
「帰ったら、皇子サマに頭を下げられたって近所に自慢することにしますよ」
と呆れ気味に言いました。四人が頭を上げるタイミングを見計らって、ホウリは再び口を開きます。
「リアナ殿下を、頼みます」
一礼し、ホウリは身を翻して横穴を出ていきました。雨の向こうに足音が消えていきます。足音が完全に雨に紛れた後、側近の騎士は皆を振り返りました。
「我々も行こう。必ずスール殿の許へ、両殿下をお連れする」
二人の兵士がうなずきを返します。ルシアン皇子がリアナに手を差し出しました。リアナはその手を握ります。側近の騎士が周囲を窺い――音と視界を遮る雨の下へと足を踏み出しました。




