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「貴女との婚約を破棄する」 そう言ってあなたは柔らかく微笑んだ  作者: 曲尾 仁庵


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遭遇

 湿った土の臭いが鼻を突きます。草をかき分けて進むリアナたちの外套を雨が濡らします。ぬかるんだ地面は踏み出す足を絡めとり、鈍らせていました。側近の騎士を先頭に、後ろを二人の兵士が守り、間に挟まれるようにリアナとルシアン皇子が並びます。

 雨は足音を紛らせ、視界を狭めます。敵も味方も平等に。側近の騎士の足取りは緊張に強張っているようでした。彼の肩に、今までホウリが担ってきた役割がのしかかっていました。

 目指す小川は気配さえなく、森は表情を変えず、本当に進んでいるのかも定かではありません。リアナはルシアン皇子と手を繋いでいました。支えているのか、縋っているのか――きっと、お互いに。心身は限界を超えて、現実感を失いつつある中で、繋いだ手の感触だけが確かなものだと信じられる気がしました。

 どれほど歩いたのか――雨は少し弱まり、時折木々の隙間から差す昼光を見上げたとき、ふと雨とは違うかすかな水音がリアナたちの耳に届きます。つま先を見つめていた顔を上げると、木々の向こうが明るく輝いていました。側近の騎士が


「川だ」


とつぶやきます。兵士たちも、リアナとルシアン皇子の顔にも、生気が戻りました。一行の足は自然に早まり、藪を突っ切り、枝を踏み折り、水溜まりの水をはねて、皆はまっすぐに明かるいほうへと向かいます。徐々に水音は増し、狭い木々の間を身をねじって抜け――視界が開けました。


――ゴオォォーーー


 雨で増水した小川はせせらぎではなく濁流となって激しい水音を立てていました。あらゆるものを飲み込み、押し流す水の流れは、しかしリアナたちの道しるべでもあります。この川を遡れば、やがて皇領森林に至る。か細い希望の糸を手繰り寄せ、側近の騎士が深い息を吐きました。




 食事と少しの休憩を挟み、リアナたちは再び歩き出します。身体を休めてしまえば、苦しさを思い出してしまったら、もう歩けなくなるかもしれない。そんな恐怖に突き動かされるように足を動かします。川沿いは見通しが利く代わりに敵からも見つかりやすい。リアナたちは川から離れすぎない範囲で森を進むしかありませんでした。

 雨は勢いを失い、今は霧のように細かく降り注いでいます。森の外には午後の日差しが降り注いでいました。天気雨、ということなのでしょうか? 森の中を進むリアナたちに冷たい風が吹き込んできます。森は不気味なほどに静かです。それはホウリが敵をうまく引き付けてくれているからなのか、ただの偶然か、それとも――運命が時を待っているのでしょうか? リアナが小さく肩を震わせました。


「……待て」


 側近の騎士が抑えた声で鋭く言い、足を止めました。手で身を隠すよう指示され、リアナとルシアン皇子が木の陰に身を寄せます。兵士たちが二人を背にかばい、周囲を見渡します。側近の騎士が木陰から少しだけ身を乗り出しました。川辺に幾人かの敵兵が立っている姿が視界に入ります。その中心には、前に林道で会った敵の隊長がいました。彼らのまとう雰囲気はどこか弛んでおり、おそらく今は休憩か報告待ちの時間なのでしょう。隊長はひそめる様子もなく部下の兵士に愚痴をぶつけています。


「上の無能を俺たちが埋め合わせるのは理不尽だろ? 理不尽だよな?」

「まだ言ってるんですか。いい加減諦めなさいよ」


 部下は呆れたように肩をすくめます。隊長は『これは正当な憤りだ』と言わんばかりに大きく腕を振ります。とばっちりを怖れたのか、周囲の兵士たちがそれとなく隊長の傍を離れていきました。


「第三皇子派が、森に伏兵を配置するほどの戦力を持ってるはずがない。そんな戦力があれば検問を正面突破してとっくに逃げおおせてるさ。それをちょっと矢を射かけられたくらいで慌てふためきやがって。しかも、おろおろしてる間に糧食を焼かれたって? 無様にもほどがある!」


隣にいた部下だけが逃げ遅れて腕を掴まれ、うんざりしたような顔を隊長に向けます。隊長は『逃がさない』と言わんばかりに意地の悪い笑顔を浮かべました。


「何が『今は状況を正しく見極めねばならん』だ。足が震えて歩けんだけだろうが。無能なら無能らしく指揮権をこちらに寄越せ。後から来た分際ででかい顔をするな。お貴族様は金を出し、責任を取れ。それ以外は何もするな」

「ちょ、言葉を選んで」


 部下が思わず周囲を見渡します。「誰が聞いてるわけもないだろう」と隊長は平然としていました。

 側近の騎士が敵の隊長を凝視しています。リアナたちを守る二人の兵士が拳を握りました。ルシアン皇子がリアナとつないだ手に力を込めます。今までリアナたちが敵に遭遇することもなく森を進むことができたのは、ホウリが戦っていたからなのです。たった独りで戦ってくれていたのです。リアナは左手を胸に当てて目を瞑りました。


「今回の襲撃で、街道を行く第三皇子派の一団は囮だとはっきりした。本命はこっちだ。それなのに『あちらの可能性も捨てきれん』? バカなのか? 街道側の兵員を全員こっちに寄越せば、間違いなく今日にはカタがついていたんだ!」


 隊長は鼻息荒く部下に唾を飛ばします。迷惑そうに部下は顔をしかめ、「顔が近い」とぼやきました。隊長は掴んだ腕を離す気はさらさらないようです。部下は小さくため息を吐きました。


「三等国の奴隷兵の言うことなんぞ聞いちゃくれませんって」

「三等国の奴隷兵だからこそ、俺たちは手柄を立てにゃならんのだ!」


 耳元で怒鳴る隊長に対し、部下は嫌そうに目を瞑ります。頭を揺らす怒声の残響が落ち着くのを待って、部下は諭すように言いました。


「我々が単独行動するのを許可してもらっただけで良しとしなきゃ」


 隊長は大仰に頷いてみせます。


「うむ。それについては感謝もしよう。おかげで得難い機会を得た」


 部下を掴んでいた手を離し、大きく伸びをして、隊長は首を回します。部下も掴まれていた腕をぐるぐると回しました。


「そろそろだな」

「意外に釣れましたねぇ」


 隊長とその部下は、そう言ってリアナたちのいるほうに顔を向けます。側近の騎士の顔からサッと血の気が引きました。川辺にいたはずの、隊長とその隣にいた部下以外の敵兵の姿が、いつの間にか視界から消えていました。そして木々の向こうに、複数の人間の気配――


「かかれ!」

「走れ!」


 隊長の号令と側近の騎士の叫びが重なり、木々がざわめくように枝葉を揺らしました。


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