ホウリ
眠れぬ夜が明け、早朝の靄の中でリアナは身を起こしました。硬い地面に寝転がるのは初めてで、地面から立ち上る冷たさが体を休めさせてはくれませんでした。風が葉擦れの音を立てるたびに身体が震えました。リアナは周囲を見渡します。離れた場所で雑魚寝している兵士たちはしっかりと眠っています。リアナは目を伏せ、小さく息を吐きました。
「お目覚めですか?」
声を掛けられ顔を上げると、そこにはすでに身支度を整えたルシアン皇子が立っていました。朝靄に薄く煙る森に佇む美少年の姿は幻想的な絵画のようです。リアナは呆としてルシアン皇子を見上げました。寝ぼけていると思ったのでしょうか、ルシアン皇子は背後を振り返ると、
「あちらにきれいな小川がありました。身を清めるにはちょうど良いですよ。ご案内しましょう」
そう言って再びリアナに向き直り、右手を差し出しました。ああ、小川で顔を洗い、身を拭えば――そこまで考えたところで、リアナの表情が強張ります。私、今、どんな格好をしている? 髪はボサボサ、顔は煤けて、服はきっと、汚れ放題――
「わ、私、一人で参ります!」
リアナは勢いよく立ち上がると、脱兎のごとくルシアン皇子の横を駆けて小川へと向かいました。ルシアン皇子は目を白黒させて、言葉もなくリアナの背を見送りました。
トボトボとした足取りでリアナは小川から戻ってきました。小川に映った自分の顔は寝不足のひどい顔、髪は好き勝手に跳ね、服は土埃で汚れ放題の体たらく。髪を梳かす櫛もなく、手で撫でつけても大した効果はありません。顔を洗いはしたものの、先ほどと大差ない姿で再びルシアン皇子に会うのは気が重いのです。
「殿下!」
地面を見ながら歩いていたリアナは、馴染みのない呼び声に顔を上げました。声を掛けてきたのは昨日リアナたちを先導してくれたクランフォート兵――密偵の男の部下の一人です。彼も密偵、なのでしょうが、何というか、密偵という言葉のイメージと結びつかない体形をしています。背が低くがっしりとして、まるでおとぎ話に出てくる土妖精のようです。リアナはふと思いついて、ドワーフのようなその男に聞きました。
「お名前を教えてくださいますか?」
「へ?」
間の抜けた声を上げてドワーフ男は動きを止めます。リアナは真剣な瞳でドワーフ男を見つめました。戸惑いながらドワーフ男は答えます。
「お――私はホウリと申します、殿下」
ドワーフ男――ホウリの回答にリアナは不服そうに顔をしかめました。ほら、やっぱり『密偵に名前はない』なんて嘘じゃない。急に不機嫌になった主君に慌てた様子で、ホウリはたどたどしく言いました。
「殿下、着替えをお持ちしましたのでお使いください。絹でも木綿でもなくて申し訳ないが、目立たず丈夫な服がこれから必要なのです」
着替え、と聞いてリアナの顔がパッと明るくなります。急に機嫌がよくなった主君に混乱を深めながら、ホウリは腰のポーチを探ると、何かを取り出して差し出しました。
「それから、櫛と麻紐を。麻紐は髪をまとめるのにお使いください」
ホウリのゴツゴツした手のひらの上に簡素な櫛と青く染められた麻紐が乗っています。リアナはキラキラとした瞳でホウリを見つめ、差し出された手を両手で包みました。
「ありがとう、ホウリ。心から感謝いたします」
「え、ええ――はい。……んん?」
過剰なまでの感謝に混迷が極まった様子で、ホウリは意味を為さない言葉を返すのがやっとのようでした。




