パン
パチパチと薪のはぜる音がして、火の粉が暗闇の中に舞っています。赤い火に照らされたルシアン皇子の横顔を、リアナは見つめていました。帝都の通商門を抜け、そのまま半日以上を走り続けて日没を迎え、リアナたちはようやく足を止めました。街道脇の雑木林に身を隠し、兵士たちが野営の準備をしています。ルシアン皇子は兵士たちを目で追い、うつむいて目を閉じました。ここまでたどり着いた兵の数はおよそ五十。ルシアン皇子たちを逃がし、追跡を食い止めるために、彼に従うおよそ半数の兵が己を犠牲にしたのです。憔悴したルシアン皇子に、リアナは声を掛けられずにいました。
「どうぞ」
側近の騎士がリアナの傍に近付き、手に持つパンを差し出しました。香ばしい匂いにリアナは振り返ります。丸い形のそのパンには中央に切れ込みが入れられ、焼いた猪肉が挟まり、あぶって溶けたチーズが掛かっています。「ありがとうございます」と言ってリアナは両手でパンを受け取りました。少し焦げたパンが冷たい指に痛いほどの熱を伝えます。
「殿下も」
側近の騎士はルシアン皇子にもパンを差し出しました。ルシアン皇子は顔を上げ、小さく首を横に振ります。
「兵と同じものにしてくれ。肉もチーズも、彼らの口には入るまい」
リアナは離れた場所で地面に座る兵士たちに目を向けました。交代で食事をとる彼らは、黒い大きなパンをちぎり、スープにひたして食べていました。スープはお湯に乾燥野菜を散らせて塩で味を付けただけのもの、そして黒パンはスープにひたさなくては食べられぬほどに固い、石のようなパンでした。兵士の一人が黒パンにかじりつき、噛み切れずに口から離してあごを押さえます。周囲の兵士が笑い声を上げました。リアナは手に持つパンを見つめます。それは柔らかく、熱く、おいしそうで、リアナはうつむいて視線を地面に落としました。
「兵を気遣う優しさは殿下の美徳。それは兄君にはない、王の器です」
差し出したパンを引くことなく、側近の騎士はルシアン皇子を諭すように言葉を続けます。
「されど、殿下には殿下に従う者の主として、守るべき領分がございます。殿下は兵に、命を捧げて守る価値が貴方にあることを示し続けねばなりません」
ルシアン皇子が顔を険しくして側近の騎士を見上げました。側近の騎士はその視線を揺らがずに受け止めます。
「餓えてやせこけた貴方を守るために、どうして身を捧げられましょう。貴方は常に堂々と王者の富貴を纏わねばならぬ。我らの主はこれほどに素晴らしいのだと、誇れる者として立ってもらわねば困ります」
ルシアン皇子は迷うように視線を揺らせました。側近の騎士は畳みかけます。
「我らには我らの矜持がございます。ここにいる者たちは皆、殿下への忠節を杖として生きております。我らの生に意味があったと、そう言うためには殿下、貴方自身が光とならねばならぬのです」
いつの間にか、兵士たちは仕事の手を止め、あるいは雑談を止めて、ルシアン皇子を見ていました。彼らは皆、聞き分けの良い弟を心配する兄のような目をしていました。自らに集まる視線に苦笑し、ルシアン皇子はつぶやきます。
「……言い方が狡いな」
「偽らざる本心にございますれば」
実直に答える側近の騎士の手からルシアン皇子はパンを受け取りました。兵士たちは安心したように仕事に、休憩に戻っていきました。
リアナは手にあるパンを見つめました。このパンはきっと、誰かがリアナのために用意したものです。自分は食べることのない柔らかくておいしいパンを、リアナやルシアン皇子のために用意したひとがいるのです。逃亡の混乱の中でこのパンを手に入れることが簡単だったとは思えません。猪肉だってチーズだって、その辺に落ちているわけではないのです。
リアナは再びルシアン皇子を見つめました。ルシアン皇子はじっとパンを見つめています。特別な地位にある者は特別な扱いを受ける。それは卑怯なことでしょうか。そうかもしれません。けれど、望まれたのなら応えねばならないのです。生きることを望まれたなら。特別な地位にある者は、望まれることを拒む権利を持たないのです。
リアナは意を決して、パンを口に運びました。猪肉の油がじゅわっと口に広がります。チーズの塩味が猪肉のおいしさを際立たせます。柔らかいパンの甘みが猪肉とチーズを包んでいました。それらは全て、誰かの献身によってここにあるものでした。
「美味しいです、殿下」
かじったパンを飲み込み、リアナは言います。
「美味しいです、とても」
ルシアン皇子は驚いたようにリアナを見つめました。リアナは静かにその目を見つめ返します。ルシアン皇子は小さくうなずき、パンをかじります。
「……本当に。とても、美味しい」
リアナはルシアン皇子に微笑みかけました。ルシアン皇子も微笑みを返します。側近の騎士がそっと息を吐き、密かにリアナに頭を下げました。




