幻
「して、どう動こうとお考えか。まずは見解をお聞かせ願いたい」
側近の騎士は密偵の男を見据えます。ルシアン皇子の命を預けることになるのです。いい加減な答えは許さぬとその目が告げていました。密偵の男は『心配するな』と言わんばかりに笑うと、懐から小さな筒のようなものを取り出しました。訝しげな周囲の反応をよそに、密偵の男は火口箱を取り出すと、火種を作って筒に放り込みます。筒は青い煙を吐き出し、煙は空へと立ち上りました。
「第一皇子が今、どこにいるかご存じですか?」
世間話のように密偵の男が問い掛けます。問いに対する答えを得られず、側近の騎士は眉をひそめました。
「皇帝陛下に従い、北伐に向かっていると聞いております」
ルシアン皇子が丁寧な口調で答えました。リアナはルシアン皇子と密偵の男の顔を交互に見つめます。密偵の男はうなずき、青い煙を見上げながら言いました。
「されど、第一皇子は陛下とは合流せず、帝都と陛下の軍勢のほぼ中間の位置で不自然に足を止めておられるとか」
側近の騎士の顔がわずかに強張ります。リアナは深刻な様子で眉を寄せました。密偵の男は変わらぬ口調で言葉を続けました。
「そのことは第二皇子の耳にも入っているはず。ならば第二皇子が最も恐れるのは?」
得心がいったようにルシアン皇子はうなずきます。リアナもうんうんとうなずきました。
「第一皇子の帰還、ということですね?」
密偵の男は満足そうに笑みを浮かべました。
「そう、そして、『そうなるかもしれない』と想像する者に『そうである』という確証を与えてやれば、それは彼にとっての『真実』になる」
筒が吐き出す煙はやがて尽き、空に拡散して消えていきます。時を同じくして、三ノ宮を囲む敵の気配が落ち着きを取り戻しました。シンと張り詰めた空気が広がっていきます。側近の騎士は複雑な表情を浮かべました。
「幻にて敵を退かせる、ということか」
ルシアン皇子は固い表情で密偵の男を見つめます。
「クランフォートはこの事態を正確に予見していたのですね」
リアナは少し咎める様な目で密偵の男を見上げます。リアナの様子に苦笑した後、密偵の男は曖昧に笑いました。
「幻は幻に過ぎぬが、時を稼ぐには充分でございましょう。そら、耳をすませば、聞こえませぬか? 幻の足音が――」
皆が顔を上げ、耳を澄まします。遠く、声が聞こえました。その声は味方を鼓舞し敵を挫く鬨の声。声は急速に距離を縮め、すぐに多量の土煙を伴って迫ってきました。
「脱出の準備を。敵の去った正門から我らは堂々と帝都を離れます」
地響き、剣戟、断末魔――周囲に渦巻く様々な感情を冷笑し、密偵の男ははっきりと宣言します。側近の騎士はわずかな時間だけ密偵の男をにらみ、兵をまとめるべく背を向けて走っていきました。
ルシアン皇子は密偵の男に近付き、胸に手を当てて頭を下げます。
「クランフォートの友誼に心からの感謝を」
密偵の男はやや苦い表情を浮かべ、小さく首を横に振りました。
「……殿下は聡明なお方だ。ならば我らが貴方を皇宮から連れ出すことの意味を、もうご存じのはず。我らに頭など下げてはなりません」
頭を上げ、ルシアン皇子は少し意外そうな表情で密偵の男を見つめます。リアナはきょとんとした顔で二人を見ていました。ルシアン皇子はわずかに表情を緩めると、密偵の男に近付き、声を抑えて言いました。
「クランフォートはこの事態をどう捉えておいでですか?」
しばし視線を上げ、密偵の男は答えます。
「殿下は生贄、第二皇子は道化、主演は第一皇子――」
わずかに言いよどんだ密偵の男の言葉を引き受け、ルシアン皇子はつぶやきました。
「興行主は、皇帝」
密偵の男の目に憐れみの色が浮かびます。聡明であることは幸せとは限らない。十三歳の少年は、その聡明さゆえに、知らずにいればよかったことさえも気付いてしまうのです。
「そこまでご存じであれば、私から申し上げることはございませぬ」
ルシアン皇子はわずかに目を伏せました。自らの推測が裏付けられた、その苦しさを飲み込もうとしているようでした。
「行きましょう」
強引に空気を断ち切るように密偵の男が言いました。いつの間にか、三ノ宮の周囲から戦いの気配が消えていました。準備を整えた側近の騎士が戻り、ルシアン皇子の隣に並びます。密偵の男は先導するように門へと向かいます。側近の騎士が声を張り上げました。
「門、開けぃ!」
兵士がかんぬきを外し、門が軋んだ音を立てながらゆっくりと開きました。




