再会
密偵の男は時を待つように身を屈めています。リアナは自分が今どこにいるのかも分からず、ただ密偵の男の背にしがみついていました。少し離れた場所から、大勢の人の声――罵声と、太鼓や鐘の音が聞こえます。それは誰かを責め苛む音で、リアナは小さく震えます。今まで生きてきて、これほどまでの悪意を間近に感じたことはないのです。
「――来た」
不意に密偵の男がつぶやき、音を立てぬよう慎重に立ち上がりました。同時に、聞こえてくる音の中に今までとは別のものが混ざります。それは、動揺と混乱――何が起きたのか分からない、どうすればいいのか分からない、という悲鳴に似た叫びが上がり、急速に広がっていきます。密偵の男がわずかに汗ばみ、罵声と楽器の音が悲鳴に塗り替えられるのを待って、
「行くよ」
そうリアナに声を掛けて、男は一気に駆け出しました。
身体が激しく上下に揺れ、振り落とされないようにリアナは必死に腕に力を込めます。密偵の男の呼吸が早まり、走りながら何かを取り出すような気配がします。悲鳴と混乱が徐々に近づく中、
「おいっ! 貴様、何をしてる!」
突き刺さるような問いがリアナたちに向けられます。密偵の男は問いに構わず、足を止めぬまま何かを投げるように腕を動かしました。金属が何かに当たる音がして、密偵の男が地面を蹴り――リアナは浮遊し、飛び越え、そしてすぐに落下しました。
ドサッという重たい音と共に強い衝撃が伝わります。どこか高いところから飛び降りたのでしょう。ずり落ちそうになった身体を元に戻そうとしたリアナに、密偵の男は言います。
「はい、じゃあ目を開けて。ここからは殿下の舞台だ」
腰ひもを外し、外套を脱ぎ去って、密偵の男は「よくできました」と言わんばかりにリアナの頭をポンポンと撫でます。日の光に眩み、リアナは目を細めました。徐々に目が慣れ、視界に飛び込んできたのは――
「何者か! 貴様!」
槍を構えてこちらをにらむ兵士たちの姿でした。
小さく息を飲み、リアナは密偵の男の袖を掴みました。兵士たちは槍を構えながら、どこか戸惑った雰囲気を纏っています。敵、にしてはたった二人、しかも一人は子供。戦場に相応しくない光景が彼らを惑わせているようです。兵士の身に着けた深い藍色の飾り帯は第三皇子ルシアンの禁色――それを見てようやくリアナはこの場所がどこなのか理解しました。ここは東宮――皇帝陛下の三人の皇子の帝都における居住区画の中の、三ノ宮と呼ばれる第三皇子ルシアンのお屋敷なのです。東宮内でも外れに位置しているという事実はそのままルシアン皇子の帝国内での立場を示している、と言われていたことをリアナは思い出しました。
「私はスール将軍麾下のクランフォート兵だ! リアナ王女ご自身の命により、王女を連れてここに参った! ルシアン殿下にお目通りを願いたい!」
軽薄な口調は鳴りを潜め、よく通る堂々とした声で密偵の男が言います。兵士たちが戸惑いの色を強くしました。密偵の男はそっとリアナの背を押します。リアナはハッと息を飲みました。そう、今この場所では、リアナは震えて怯える子供であってはならないのです。十歳のただの女の子では帝国の第三皇子に会う資格はない。クランフォートの第二王女、そしてルシアン殿下の婚約者として立って初めて、リアナは彼に会う資格を得るのです。リアナは掴んでいた袖を離し、一歩前に進み出ました。
「私はクランフォート王国の第二王女リアナと申します。ルシアン殿下にお伝えしたき儀あり参りました。どうぞお目通りをお許しくださりませ」
できるだけゆっくりと、落ち着きを意識して、リアナは言います。隠し切れない緊張に声がわずかに震えました。正面にいる、おそらくは隊長格であろう兵士の目を見つめ、微笑みます。怖れてはいない――そう何度も念じながら。
「か、確認する。しばし待たれよ」
隊長格の兵士は動揺したようにそう言うと、部下に目配せをして、走って奥へと消えていきます。残った兵士たちは変わらず槍をリアナたちに突きつけ、警戒を解いていません。リアナはそっと隣にいる密偵の男を見上げました。密偵の男は目だけでリアナに笑い掛けました。
壁の外からは未だ混乱と悲鳴が響いています。リアナは鼓動を抑えるように胸に手を当てました。やがて奥の建物から、早足でこちらに近付く一団の姿が見えました。武装した兵士たちの中心には、
「リアナ殿下!」
美しい鎧を身にまとったルシアン皇子が驚きの表情を浮かべていました。




