密偵
密偵の男はリアナを背負うと、紐で身体を固定してその上から外套を羽織り、立ち上がりました。リアナの視界は完全に閉ざされ、周囲の音も鈍く不明瞭になります。密偵の男が歩き始めました。リアナは抱き着く腕に少し力を込めました。
密偵の男は迷いなく歩みを進めます。たくさんの足音がすれ違い、通り過ぎ、あるいは足を止め、話し声が聞こえます。
――西棟から火が
――第二皇子派の内部は統制が
――省部の文官の一部が籠城
――三ノ宮が包囲され
切迫した囁きが断片的に聞こえます。息苦しくなるような熱気が伝わってきました。何かの焦げた臭い、金属の打ち合う音、悲鳴――何も見えない暗闇の中で、近く遠く、波のようにリアナを襲います。何も聞くなと言われたけれど、耳を塞ぐこともできないこの状況で、どうやって――いえ、きっと、『考えるな』ということなのでしょう。聞こえる音の意味を。音の向こうで起きる現実を、想像してはならないと。
密偵の男は誰かに何かの指示を出し、再び歩き出します。誰かと合流したのでしょうか、密偵の男を囲むように同じ速さで歩く数人の気配がします。リアナは固く目を閉じます。背中越しに伝わる密偵の男の変わらぬ体温が辛うじてリアナを落ち着かせてくれていました。
どれほどの時間が経ったでしょうか、やがて密偵の男と周囲の気配が同時に足を止めました。少し遠くから、兵士たちの上げる気勢やドォンという重たいものを打ち付ける音が聞こえます。会話を聞きとがめられることがないのでしょうか、隠す意志の感じられない声の大きさで密偵の男が口を開きます。
「完全に囲まれてるな」
「もって半日、ってところでしょうかね」
どこか冷たい響きを帯びた声が、外套越しにくぐもって聞こえます。リアナは身体を強張らせました。密偵の男が後ろ手に軽くリアナの背中を叩きます。
「お日様が元気で頑張ってらっしゃるこの時間に、殿下を連れてどうやって忍び込みます? せめて日暮れを待ったら」
「もって半日と言ったのはお前だろ」
「だったらせめて殿下は先に将軍の許にお届けして、第三皇子に会うのはあんただけにしたらどうです? 皇領森林で感動の再会、悪くない筋書きでしょうに」
「俺だけで行って第三皇子がこちらを信用するわけがないだろ。殿下が皇子の前に立って初めて、向こうは本気でこちらの話を聞く。殿下はもう、計画のマスターピースなのさ」
「……プランCですか」
「プランCだな」
「いっちばん可能性の低いとこに突進しちゃいましたねぇ」
「だいたいそんなもんだ、世の中は」
誰かの深いため息が聞こえます。密偵の男は小さく鼻を鳴らしました。
「陽動頼むぞ。クランフォートの未来は諸君の奮励に掛かっている」
「簡単に言ってくれちゃって」
ぼやき声と共に、周囲の気配がスッと離れていきます。密偵の男もどこかへと向かい始めました。少し離れた場所から声が掛かります。密偵の男は振り返りました。
「殿下の言葉を第三皇子が聞かなかったら?」
「そのときは皇子を――」
一瞬だけ言いよどみ、
「――どうにかするさ」
濁すように小さく笑って、密偵の男は今度は少し早足に歩き始めました。




