魔法
さて、と切り替えるようにつぶやき、密偵の男は建物の壁に耳を付けて目を閉じました。リアナは不思議そうに密偵の男を見つめます。密偵の男は目を閉じたまま、しばらく何かを探るように眉間にシワを寄せていましたが、やがて目を開け、慎重に拳で壁をコンコンと叩き始めました。
建物の中では徐々に乱闘の気配が収まりつつあります。渡り廊下の向こうでは慌ただしい足音が聞こえます。いつ、誰がこの中庭に出てくるかわかりません。リアナは胸に手を当て、静かに深く息を吐きました。じっとりと嫌な汗が額に滲みます。
不思議なリズムで壁を叩いていた密偵の男は、「ふう」と息を吐き、壁から身体を離してリアナに向き直りました。
「もう少ししたら渡り廊下の向こうで騒ぎが起こる。その隙に乗じてここを抜けるよ」
リアナは小さく首を傾げます。
「どうしてそのようなことがわかるのですか?」
密偵の男は少し考える仕草をすると、どこか意地の悪い笑みを浮かべました。
「うーん、そうだな。ちょっとした俺の魔法さ」
「すごい!」
思わず声を上げ、リアナはすぐに自らの手で口を塞ぎます。密偵の男は驚き、すぐに呆れた顔になりました。
「ひとの言うことをそんなに簡単に信じちゃダメだよ」
「ウソだったのですか?」
リアナは密偵の男をにらみます。はぐらかすように笑って、密偵の男はリアナの頭に軽く手を置きました。
「大人の魔法はウソとハッタリでできているのさ。さ、そろそろだ。三、二、一――」
密偵の男はリアナに右手を差し出し、指を使って数えます。同時に、どこかからか焦げ臭いにおいが漂ってきて――
「火が出てるぞ!」
渡り廊下の向こうから緊迫した叫び声が響きました。
「さて、リアナ殿下におかれましては、今から私の背にしがみついていただき、目を閉じ、耳を塞いでいただかねばなりません」
道化のような口調で密偵の男は言います。しかしその目は砂漠の風のように乾いていました。
「ここから先はこの世の地獄。あなたはその地獄を、見てはいけないし聞いてもいけない。なぜなら王族とは、末端にどれほど惨い犠牲を強いても正しい未来を決断しなければならないからだ。苛酷な現実に立ちすくむなど許されない。お約束くださいますか? 私がよいと言うまで、決して目を開かず、何も聞かぬと」
密偵の男の言葉は、これからの時間が今までとはまるで違うものなのだということをリアナに告げていました。『想像もつかない』という恐怖にリアナの身体が小さく震えます。しかし、決めたのです。殿下に会うと。そのためならためらうことに意味はありません。リアナははっきりとうなずきを返しました。密偵の男は少し乱暴にリアナの頭をくしゃっと撫でると、自らの背を差し出しました。
「行きましょう、殿下。必ずあなたをルシアン様の許にお連れします」
密偵の男の首に手を回し、リアナはその背中に身体を預けました。




