問い
薄暗い廊下から出た瞬間、日差しのまぶしさに眩み、リアナは思わず足を止めました。全力で廊下を駆け抜けた緊張と疲労がリアナに追いついてきます。身体がわずかに右に傾ぎ、リアナは右足を踏み出して身体を支えました。息は乱れ、足は重く、気を抜くと座り込んでしまいそうです。
後ろの廊下からは乱闘の怒声が聞こえてきます。この騒ぎがいつまで続いてくれるのか――今のうちに兵士の目から逃れ、東宮へと向かう道を見定めなければなりません。きっと、今しかない。今を逃せばルシアン皇子にはもう会えない。
――ルシアン殿下のお命は、あと数日だろうってことだけさ
敵の隊長が言っていた言葉が蘇ります。泣きそうになる目を握った手でこすって、リアナは顔を上げました。
――カッ、カッ、カッ
鉄靴が床を打つ音が聞こえ、リアナは身を固くして周囲に目を走らせます。音は渡り廊下の向こうから聞こえてきます。きっと、後ろで騒いでいる兵士たちとは別の兵士がこちらに向かっているのです。
(隠れなきゃ!)
中庭にあるのは手入れされた低木の垣と等間隔に植えられた常緑樹。どちらも姿を完全に隠してくれるものではありません。木の陰、それとも垣に潜り込む? 迷いを浮かべたリアナの耳に、
――ガサッ
枝葉の擦れる音が聞こえます。リアナは弾かれたように音のほうを振り返りました。目の前に、伸ばされた大きな手――
リアナの息が止まります。手が彼女の襟元を掴みました。身体が固まります。手は強引に垣と壁の間の影の中にリアナを引きずり込みました。リアナは目を固く閉じ、鋭く息を吸って――
「待って! こらえて、悲鳴はやめて!」
手がリアナの口をふさぎ、耳元で囁くように叫びました。
「俺はスール将軍の命令で第二皇子所属の部隊に潜り込んでリアナ様をお救いする機会を窺っていた密偵なんだけどまさか殿下が自分で部屋を脱出するとか思わなくて完全に計画狂っちゃってどうしようかと思ったら殿下が中庭に出そうな勢いだったから先回りして潜んでいたのでつまり味方だから泣いたり叫んだりする必要は全くありません分かった分かってお願いします!」
ひと息にそう言って、手――密偵の男は緊張の面持ちでリアナの様子を窺います。リアナは吸った息をゆっくりと静かに吐き出しました。密偵の男は安堵の表情を浮かべ、リアナの口を塞いでいた手を放しました。鉄靴の音が渡り廊下を渡っていきます。密偵の男はひそひそと話します。
「音を立てないよう気を付けて聞いてください、殿下。スール将軍はこの事態を予見し、殿下をお救い申し上げるための機会とするよう我らに命じられました。殿下はこれより我らと共に皇宮を脱し、皇領森林で待つスール将軍と合流して、西の国境を抜いて本国に帰還します。しばらくはまだ苦しい道となりますが、今少し御辛抱ください」
「待って!」
リアナは思わずそう声を上げます。密偵の男は慌てて人差し指を唇に当てて「シーッ!」と言いました。リアナは構わず続けます。
「私、このまま逃げ出すことはできません。ルシアン殿下に会わねばならないのです」
その言葉を聞いて、密偵の男の動きが止まります。しばらく固まり、意味の浸透を待って、密偵の男は意味もなく手を動かしました。
「えーっと、うん、とりあえず、落ち着こう。落ち着いて、整理しよう」
密偵の男はゆっくりと深呼吸します。リアナも釣られて深呼吸しました。密偵の男は考えを整理するように視線を上に向けました。
「ルシアン皇子に、会わないといけない?」
リアナは大きくうなずきます。
「はい。会って、謝らなければなりません」
密偵の男は不可解そうに眉を寄せます。
「婚約破棄を、願い出ていたのでしょう? 嫌っておいでだったのでは?」
「嫌ってなどいません。よく知らなかっただけです」
疑問を深くしたのか、密偵の男の眉間のシワが深くなります。
「……知らないままお別れしてはいかがでしょう」
「ダメです!」
大きな声を上げそうになり、リアナは自分で口をふさぎます。そして、声を小さくして密偵の男の目をまっすぐに見据えました。
「……きっと傷付けてしまったの。だから、きちんと知って、謝りたいの。どのくらい傷付けてしまったのか、きちんと、知って」
リアナはわずかに目を伏せます。密偵の男は「うーん」とうなり、ワシワシと頭を掻きました。
「……そういう可能性も考えなかったわけじゃないし、そっちの展開のほうが実は都合がいい、んだけど――」
密偵の男の声が、鋭い真剣さを纏いました。
「――その『都合のよさ』は、リアナ殿下、貴女の心が『本物』かどうかに掛かってる」
「……『本物』?」
おうむ返しにつぶやいたリアナに、密偵の男は大きくうなずきました。
「聞かせてほしい。殿下にとってルシアン皇子は、なに?」
密偵の男は見透かせるような瞳でリアナの目を覗き込みます。リアナは自分に問うように胸に手を当てると、軽く息を吸い、吐いて、そしてはっきりと言いました。
「私はルシアン殿下の、婚約者です」
軽く目を見張り、密偵の男は苦笑いを浮かべます。
「……険しい道だよ?」
止めるような男の口調に、しかしリアナはうなずきを返しました。観念したように軽く手を上げ、「スール将軍に怒られるかなぁ」とぼやくと、密偵の男は切り替えるように言いました。
「わかった。ルシアン皇子のところに向かおう。だけど――」
密偵の男の目に鋭い光が掠めます。
「ただ逃げるより何倍も厳しいよ。覚悟して」
その光に気圧されるように唾を飲み、リアナはうなずきました。




