六十八話
「わっ! きゃぁぁ!」
谷から落ちた悲鳴の声音で、彼女が正気に戻ったのが分かった。
悲鳴を聞いた瞬間に理解できるのは、俺が婚約者だと思えて嬉しい。
が、正直な感想は、
「もっと早く正気に戻れよ!」
だ!
それでも、悪態をつきながら、涙目の彼女を見て俺はあの黒光りする昆虫を、この大陸から消すことを誓った。
亀裂の縁で、俺を確認した彼女が足元の砕けた地面を蹴って、こちらに飛び移ろうとして懐から見覚えのある皮袋がこぼした。
「(あれは俺がやったガラス飴の袋?)」
「あ!」
それをつかんだ彼女の右手。
でも、俺の手をつかもうとした左手の反応が遅れた。
彼女の手が何かをつかむように空中に伸びる。
「シェリー!」
亀裂の縁から身を乗り出し、なんとか間に合った俺の手が彼女の落下を食い止めた。
「……テイル……大丈夫?」
だが、助けているはずのシェリーに心配されてしまった。
「ざけんなよ! 俺だって、お前に少しでも追いつきたくて、内緒で筋トレしてたんだ!」
でも、気合を入れすぎたのか……。
グキリッ!
彼女の手をつかんだ俺の肩が、鈍く小気味いい音を立てた。
「テイル……?」
「大丈夫! 大丈夫!」
なんだか怪しい油汗を全身にかきながらも、笑顔で答える。
「でも、いくら私が羽のように軽い美少女でも、テイルってば……ひ弱だし……」
優しさの欠如と、白々しい図々しさが色濃く混ざる言葉に、急に力が抜けてしまった。
「な、なに? 急に力が弱くなったけど?」
「当たり前だ! 真顔でそんなこと言われたらやる気無くなるつーの!」
でも……。
「それでも。お前一人ぐらい支えられなくて、婚約者だなんて名乗れないだろ!」
ドサクサに紛れて言ってやった……。
まだ婚約は解消してないはず……もしかして、もう戻れないかもしれないけど、少なくとも俺の中では……。
「テイル……まだ……婚約者と……思ってくれるの?」
彼女の囁きは、儚く小さい。
「は⁉ 聞こえねーよ! いつものバカデカい声で話せよ!」
それでなくてもさっきから肩に激痛が走って、頭がボーっとするってのに。
「うっさいばか! さっさとその手、放しなさいよ! これじゃ、あんたまで……」
「放さない!」
俺は握った手に力をさらに込めた。
「やっと、つかんだんだ! 好きで。大好きで、婚約しても握れなかった女の子の手を、やっとつかんだんだ! 死んでも放さない!」
「な! なに言ってんのよ!」
この状況下なのに、はっきりと彼女の顔が染まるのが分かった。
ちょっと、嬉しかった。
でも、それが悪かった。
スルッ!
「「え?」」
こんな時だけ二人の声が重なった。
俺が告白に力を込めすぎたのか?
突然の告白に彼女の力が抜けたのか?
それにしても……。
「カッコ悪すぎだろ俺!」
死んでも放さない! なんて言っといて、数秒も持たずに放すなよ!
いや、今はそんなこと考えてる場合じゃなかった。
「シェリィィィィィ!」
力一杯――反射的に瞳を閉じて叫ぶ。
そして、彼女を追い掛けて縁から身を盛り出した。




