第9話:武田の暗躍〜綻びゆくお家〜
祖母である寿桂尼が世を去って間もなく、我が今川家は内側から静かに崩壊し始めていた。
北の甲斐国から、あの武田晴信が放った忍びたちが領内に潜り込み、古参の家臣たちを裏切らせようと激しい調略の糸を引いていたのだ。
そんな中、西側の徳川家康──かつての可愛い後輩、竹千代くんから、我が身を揺るがす極秘の密書が届いた。
しかし、あの竹千代くんが松平元康とかになって、その後徳川家康になった時は、心の底からびっくりした。
日本史に疎い俺でも、徳川家康が天下を取るぐらいは常識として知っていたし、竹千代くんに優しくして仲良しになったのは、昔の俺の超絶ファインプレイだったようだ。
何てったって、俺の世界で天下人になった竹千代くん改め家康くんと仲良くしておけば、この世界で俺は安泰なんじゃね?とすごく安心した。
本当の家康がどんな奴かは知らないけれど、竹千代くんは本当に可愛くて賢い子供だった。
こんな俺の事を今でも慕ってくれているし、あいつが根はめちゃくちゃ良い子だって知っているからこそ、心の底から信用出来るのだ。
しかしながら、密書の内容はかなり衝撃的なものだった。
『氏真様、一大事にございます。
武田が私に
「同時に今川を攻め、領地を分け合おう」
と密約を持ちかけてまいりました。
拒めば我が松平も信玄に潰されます。
私は織田信長の手前、表立って氏真様をお助けすることは叶いません。
……そこで、信玄の目を欺くため、私も今川の領地へ攻め込みます。
お互いに激しく合戦をして、今川が負けている風を装うのです。
そうして時間を稼ぎましょう。
北条様は家族想いのお方ゆえ、早川殿の為なら、武田を切り、今川に助力してくれるはず。
北条様が動くまで、何があっても、私が氏真様と早川殿のお命はお守りいたします』
手紙を読んだ俺は、冷え切った指先でそれを握りしめた。
(た、竹千代くうううん!! なんていい奴なんだお前は!!)
武田がどれほど強大で恐ろしいか、歴史に疎い俺でもそれくらいは知っている。
まともに戦えば、今川は確実に潰され、俺も、糸ちゃんも、家臣たちも全員が首を獲られて終わるだろう。
だが、家康くんは違った。
かつて俺が屋敷で注いだ情(ちまきとサッカー技術)のためだけに、信長や信玄の目を盗み、命がけで「攻めている振り」を引き受けて俺たちを救おうと言ってくれているのだ。
俺は即座に、家康くんの提案に応じる旨の返信を出した。
これで家康くんとの「お芝居」の段取りは完璧だ。
だが、その直後に今川家で起きた大騒動において、俺の現代人としての合理的な思考は、戦国マインドの家臣たちとの間に致命的な溝を生むことになる。
家康からの知らせを受けて数ヶ月が過ぎたころ、古参の有力武将である飯尾連龍が、徳川と密かに内通し、今川に対して反乱を起こしたという動かぬ証拠が突きつけられたのだ。
家臣たちが
「裏切り者め! 即座に八つ裂きにせよ!」
と息巻く中、俺は静かに手を挙げ、彼らを制した。
「いや、飯尾のことは追及しない。
すべて不問に処し、許すこととする」
俺からすれば、これは当然の判断だった。
飯尾はあの家康くんと内通していた。
ということは、俺たちを助けるために家康が仕掛けてくれている「偽りの合戦」における、徳川側の段取り役のようなものだ。
ここで彼を処刑してしまえば、家康くんの作戦にどんな狂いが出るか分からない。
だが、当然ながらこの密約を何も知らない今川の武将たちにとって、主君のその言葉は、天を仰ぐほどの絶望と不信感に変わった。
「な……なぜですかお屋形様!
徳川と内通した裏切り者を、当然のように許すとは……!
我が主は、そこまで敵を恐れる腰抜けになられたか……!」
古参の筆頭である朝比奈信置らは、拳を血がにじむほど強く握りしめ、冷たい怒りを俺の背中に突きつけていた。
お家の中に広がる致命的な不信。
そこへ、最悪の事件が追い打ちをかける。
俺が和睦し、無罪放免として駿府の館に呼び寄せたはずの飯尾連龍が、ある夜、突如として惨殺されたのだ。
衣服にべっとりと返り血を浴びた黒衣の集団と共に、側近の三浦が、いつも通りの無表情で俺の前に現れた。
「お屋形様。
昨夜、飯尾連龍を裏で綺麗に『処分』しておきました。
お屋形様の御慈悲は、あのような裏切り者には勿体なきお言葉。
甘さを突かれればお家は崩壊いたします。
悪種は即座に根絶やしにする……これこそが、寿桂尼様より後見を託された、この三浦の義務にございます」
「……何をした、三浦。
俺は飯尾を本気で許したのだぞ!
なぜそんな勝手な真似をした!」
「すべては今川家を守る為にございます。」
声を荒げる俺の現代人としての叫びは、三浦の冷徹な戦国マインドによって完全に握りつぶされた。
そしてこの勝手な処刑は、生き残った古参の家臣たちの目に、最悪の形で映ってしまった。
『氏真様は、徳川と内通した飯尾を
「当然のように許す」
とあれほど優しく仰ったのに、裏では三浦を使って呼び出し、あっさりと騙し討ちにした。
……次は、我ら朝比奈の番だ。
あんな冷酷で、何を考えているか分からぬ主君には、もう付き合えぬ』
家臣たちの心は完全に今川から離れ、恐怖と疑心暗鬼が国中を包み込んでいった。
(違う! 俺じゃない! 家康くんの時間稼ぎ作戦に協力したかっただけなのに、なんで俺が勝手に冷酷非道なサイコパス魔王にされてるんだよおおお!!!)
誰も死なせたくない、家康くんの優しさに乗って全員を生かしてこの乱世を抜け出したいと願った俺のすべての行動が裏目になり、家臣たちを今川から切り離す最悪の引き金となってしまったのだ。
数日後、満を持したように武田信玄の本隊が、駿河へと怒涛の勢いで侵攻を開始したのである。




