第10話:駿府脱出〜泥だらけの逃避行〜
武田晴信改め武田信玄の本隊が駿河へ侵入したという一報が届いた時、俺はすでに、駿府を捨てる決意を固めていた。
(なんだよ、武田晴信って武田信玄じゃねーか、歴史に疎い俺でも、戦国最強とか言われてたって事くらいは知ってるぞ……パラレル日本のはずなのに、ちゃんといるじゃないか)
まともに戦えば全滅する。
それならば、無駄な血を流さずに退く。
それが現代人である俺の、何よりも揺るぎない合理的な生存戦略だった。
出陣を叫ぶ武将たちが集まる大広間で、俺は静かに、しかしはっきりと告げた。
「これより、駿府を捨てて遠江の掛川城へと退く。
──なお、武田に寝返りたい者がいれば、俺は一切責めない。
今の今川に付き合えばたぶん命を落とす。
各々、自分の命を一番に考えて行動しろ」
大広間が、凍りついたように静まり返った。
武士にとって、戦わずして本拠地を捨てるなど最大の恥辱。
ましてや、配下に裏切りを勧める主君など前代未聞だった。
武将たちは言葉を失い、冷ややかな視線を俺に送った。
だが、その日のうちに朝比奈信置ら古参の重臣たちが次々と武田へ寝返り、戦線が崩壊していく中で、残された者たちの心境は変わり始めていた。
恐怖に駆られて逃げるのではない。
この若き主君は、最初からこの崩壊を予期し、我ら家臣を無駄死にさせないためにあえて
「臆病者の謗り」
を一身に背負ったのではないか。
一部の兵士たちは心の中で、戦国の常識を超えた新しき主の器量を見直し始めていた。
武田の軍勢が駿府に火を放ち、黒煙が天を覆う中、俺は糸ちゃんの手を強く引いて歩き出した。
戦火の混乱のせいで馬も籠も用意できず、俺たちは泥にまみれながら、徒歩で険しい山道を逃れるしかなかった。
(俺たちは戦う気なんてなかったのに、武田は何で街を焼き討ちなんかするんだよ!
街に兵士なんかほぼいないって事くらい、すぐ分かるだろ!
戦国マインドはマジで意味が分からないし、全く理解できないわ!)
何もできなかった自分の不甲斐なさと、街の住民達への申し訳ない気持ちで、泣きそうになりながらひたすら歩いた。
「糸ちゃん、ごめん。
こんな泥まみれの山道を、自分の足で歩かせることになっちゃって。
足、痛むだろ」
前世でも経験のない過酷な山道。
引きこもり生活で鈍った俺の体は悲鳴を上げていた。
だが、俺より遥かに小さな糸ちゃんは、着物の裾を泥に染めながら、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「いいえ、氏真様。
実家におられた頃は、勝手にお屋敷の外へ出ることも叶いませんでした。
こうして氏真様と手を携えて歩むのは、まるで家族皆で行く遠乗りのようで、糸は少し楽しいのです」
「遠乗りって……こんな過酷な遠乗りなんかないよ。
ほら、滑るから気をつけて」
「はい。
ですが、氏真様のお手はとても温かいです。
これなら、どこまででも歩いていけそうにございます。
後ろで乳母に抱かれている娘も泣いてはおらず、笑っておりますよ」
辛い逃避行のはずなのに、糸ちゃんの健気な明るさが、俺の折れそうな心を何度も救ってくれた。
名誉も領地も失いつつあるけれど、愛する妻と娘の命と、ついてきてくれた家臣たちの命がまだここにある。
それだけで、俺の選択は間違っていないと確信できた。
(まあ、実家のパパである北条氏康さんが、娘を徒歩で逃がしたって知ったら、武田信玄相手にブチギレて戦争始めちゃうかもしれないけど……それは家康くんの思惑どおりなのか……)
泥まみれになり、幾日も歩き続けた果てに、ようやく前方に頑強な城塞が見えてきた。
今川領遠江の要衝、掛川城だ。
厳重に警戒されていた城門が重々しく開かれ、中から一人の屈強な武将が、泥まみれの俺たちの前に駆け寄って跪いた。
今川家への絶対の忠誠を誓う古参の重臣──朝比奈泰朝であった。
「お屋形様、早川殿! よくぞ、よくぞご無事で……!
この掛川城、朝比奈泰朝が命に代えても御家族をお守りいたします!」
武田相手にただ無様に逃げてきた俺を責める事もなく、ただただ暖かく迎えてくれた泰朝の涙ながらの叫びに、俺は泥を拭いながら、小さく息を吐き出した。
これでひとまず、最悪の危機は脱した。
泰朝曰く、この掛川城は備蓄もある程度あるし、守りが固い、籠城に向いた城らしい。
だが、外には武田の影、城の周りを塞ぐように、密約を交わした徳川の軍勢が迫りつつある。
(泰朝くん、ありがとう。
でもね、命に代えて守らなくていいから。
みんなで生きてここで耐えるんだよ)
味方すら誰も知らない「偽りの合戦」の舞台となる、掛川城。
俺と家臣たちの命をかけた、長い、長い籠城戦の幕が、静かに上がろうとしていた。




